novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

社会問題は一休さんのトンチでは解決できない

意地悪をするお代官様がいないからな…

というか、差別的な状況において、心の底から差別をしたいと思ってそういう状況を作っている人なんてほとんどいないんじゃないかな(ほとんど、というとそうでもない気はしているが、建前上)。
実際の問題として、その状況の解決を阻むものは沢山あるけど、特に今問題になりがちなのは大体リソース不足に起因している、となると、リソースを手当する、という解決策をいろいろ考えなければならないんだけど、どうしてもそこで「原則的にはこうなんだからなんとかしろ」だけで言った気になっちゃう人はいるよなあと思ったりもします。

無人駅の問題でいうと、無人駅は有人の維持費問題を解決するための手段だから、そこで更に維持費掛かるとなれば廃止が現実的だよね。地元として駅を廃止しない要件としてサービスはどうでもいいからとにかく電車止めてを調整していたとしたら、サービスはどうでもいいというコンセンサスがあるとして存続を判断しますよね…とか。社会の諸々はそういう事情を元に行われているから、そこに斟酌しないということが必ずしも一方の当事者の利益にならないときに、何が優先されるべきなのって話にはなってしまう。ともあれ、「その駅から電車に乗る」ことと「その駅付近から電車に乗れれば乗るのはその駅からである必要がない」が等価であれば(つまり、目的が合致すれば)コストの観点で代案が考えられるかもしれないし、なれないかもしれない。原則的な自由は尊重されるとしても、現実の問題として「遜色ないサービス」が得られればそれは必ずしも差別されているとは言えないですよね。
これは現実解がこうです、といっているわけではなくて、議論の俎上に乗せるってのはそういうことですよね、という話です。社会への要請が「何が何でもその駅から乗りたいんだ。利便性とかは関係ない」であればそれはちょっとわがまま(というのは、他の問題でその駅から乗ることを諦めるケースだってあるから、特定のケースだけが特異的にフォローされることは良くない)だとは思うし、そうじゃない必然があればじゃあどうすればよいだろうねって考える。現状が「理想的ではない」ことについて異論がある人なんていないだろう(いるかも知れないが、それこそ差別主義者ではないか、と問いかけても良いと思う)。理想に対して現実解が「xxでなければならない」ということが本当に唯一解だったらいいんだけど、そうでないのであれば、「xxでなければならない」はわがままに見える。とはいってもそれを単にわがままと評価するのもあんまりよくないこととは思う。問題なのは、そういう議論を経ないで「xxでなければならない」だけが押し付けられるとそれによって負担が増える人は全く納得ができないだろうということ。

といってもね、原則論そのものについて「わがままだ」って言う人は少なからずいるよね(これは現代の意識としては「差別的」とされても仕方がない)。そういうのもカウンター言説みたいな登場の仕方をしがちなのが運動することの難しいところで、感情的なスイッチを入れてしまうと「俺たちの事情なんてどうでもいいのか」って反応になりがちだし、なかなかそういうのをオフにするのも難しい。

こういう話が「差別的状況」であること自体には議論は要らないと思うんだけど、現実にどう解決していくかってのは沢山議論をしていいと思うんだよね(そのときに「色んな」当事者を無視しないようにして)。こんなの特定の誰かが悪人であることに起因している問題じゃないんだから、罵り合ってもいいことないしね。というか、僕たちもそういう議論を「自明のもの」としてサボるようになってきていないかな。最近たまにそういうことを考えます。長く関わっている人ほど新規参画者のために知見を出していく(xxを読め、だけではなくね)ことも必要かなって思ったりもします。