novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

なんで全世界同一価値観コミュニティーを築こうとするんだろうか

マジで大統一理論(誤用)でも打ち立てるつもりなのだろうか、と最近思うんですけどね。

多様性をどこまで許容するか、というのは社会の構造上かなり難しい課題ではあります。一見、全世界につながってしまっているように思える昨今ですが、依然として我々はローカルのコミュニティーに所属し、人間関係を構築しながら生きているわけで、価値観の差異にときに折り合いをつけ、ときに揉め事を起こしながら、人生を送っているわけですから、いきなり「お前らは間違っているから今すぐ見直せ」と言われても困ってしまいますよね。それで起きる軋轢を全部出張して調整してくれるわけでもないのにね。

だから、原則こうあるべき、という話をウェブでしながら、でも現実はこうなっていて課題だよね、ということをリアルに少しずつでも反映できたらいいな、というのがふつーの人なんだと思う。それをもう少し急進的に進めたい人たちは社会運動をするし、政治家を動かすわけです。少なくともウェブで大声を出すだけで社会が動くかというとそんなことはないし、ウェブで正義を語ったところでその正義が社会に適用させるかというとそんなことはない。でも、「こうあるべきだよね」をみんなが発信して、すりあわせていくことができるウェブってのはとても良いところがあると思う。

「こうあるべきだよね」の解は一つである必要はないんだけど、その多様な解を現実にマッピングすると、ものすごく散らばって存在していることが多いと思うんですよね。逆に言うと、ウェブだからこそ、ある程度同一の価値観をもった人たちがコミュニティーを作れるようになった。一昔前はイベントとかオフ会とか、そもそも手段は文通とか、そういう世界だったのでそこの距離は急激に縮まっている。反面、一度その界隈が出来上がってしまうと、界隈に所属することとしないことについて、いろんな問題が出る(小さいコミュニティーが点々とする時代から、なんか統合されつつある時代への変化もある)し、そういった形で可視化された界隈は当然他者からも界隈として見えてしまう。昔は界隈に参加する意志のある人にしか見えなかったコミュニティーローカルの価値観は、ウェブをツールとして採用したことによって全世界に提示される価値観になってしまう。これでは、コミュニティーのローカルルールで遊べなくなってしまう。ウェブってとても窮屈なものに見えてくるよね。

最近、TwitterではなくDiscordのコミュニティで遊んでいるんだけど、そういう意味ではちょっとしたクローズドな環境で、「わきまえた」人たちが文脈がわかってないと際どいネタで会話するのって波風立たんなあと思って快適なんだけどさ。仲間内だからこそ、やりすぎたときの対処も可能だったりするんだよね(これがオープンなところだとウェブ人格が生きるか死ぬかみたいな岐路に立たされがちだからさ)。

何でもオープンにする、ということ自体は、大統一理論(またしても誤用)を打ち立てたい人にとっては理想的な姿かもしれないけど、僕はローカルコミュニティが他のコミュニティ(もちろん、社会全体を含む)を侵害しない形で活動している限りでは、そこで行われていることが(そこにいる人達自身の)人権に関わる問題さえ抱えてなければ、干渉されない、というのが良いと思うんだよね(中の人の人権が侵害された場合の安全弁みたいなものは課題だろうけど)。

性癖を開陳する場としてのインターネットについて

インターネットの公共性についてあらためて語るってのもアホくさいので省略するけれども、なんにせよ公共の場で性癖を開陳するというのはお行儀の良い話ではない。
一方で自由なウェブという概念を完全に捨て去る必要もないとは思うんだよね。完全クローズドの存在を作るのが難しいからと言って、半クローズドを志向することは良いと思うし、そこにあえて踏み込んでくる輩に関しては「じゃあ来るなよ」である程度は済ますことはできる。参加者がルールを守らないコミュニティは衰退する。それだけのことだと思う。オープンなSNSを利用する際は節度をもって、ということだと思うし、節度がないことでオープンな場で許されるはずの表現が過度に性的なものと認定されてしまうこともある(そう追い込むこと自体、ある種の攻撃といえる場合もあるだろう)。

でも、このことできれいな線を引くというのはかなり難しいことだと思う。どこまでが許されて、どこまでが許されないかなんて受け手側の恣意的な判断にどうしてもなってしまうからね。だから、一人ひとりが欲望のままに垂れ流すのではなく(全部が噛み合うことは不可能であっても)、それなりの論理と基準を基に行動する(意識を持つ)ことは大事なのだと思う。そこにロジックがあれば、基準を動かすことの妥当性についても議論できるし、結果として落とし所を見つけることもできるだろう。もちろん、それは性癖を開陳する側の問題だけではなく、それを過度に(ここでの過度は場にふさわしくない、程度の言葉)性的なものだとクレームする側にも言えることではある。

ただ、実は批判する側が明確な論理を持つのって結構難しい。論理に窮した挙げ句、存在そのものが性的であると突き抜けてしまったのが巨乳は存在自体が罪問題ではあるし、制服の絵そのものがエロい問題ではある。もっとも後者は想起させる仕掛けが施されている場合、性癖の開陳と紙一重ではある(場合もある)。客観的な基準を作ろうとすればするほど、存在そのものが悪いという理屈に近づいていくし、そういうロジックにもとづいた「巨乳はエロいから悪」という基準は「いやおれ貧乳のほうがエロいと思うんだけど」で粉砕される(実際にはされてないけど、これが反論として有効になる程度には雑なことを言う人も多いだろう)。結局、何かが性的であるという問題を語るには、自分の性癖に関する見解を述べざるを得ない(それをやらないと単なる主観でしかない)し、それが辛いから目をつむってるだけしかできない、という人も多いと思う。どちらかというとダイレクトにNoを叫ぶ人よりも、そういう人たちに意図せぬ形で性的なコンテンツがカジュアルに提示される状況の方が気持ち的には良くないって思う。

冒頭で「お行儀が良くない」と述べたとおり、これはお行儀の問題として考えたいと個人的は思っていて、逆に言うと、半クローズドな場に特攻してきて問題点を論うのも、お行儀が良くないという点では似た者同士である、と片付けたいわけ。でも、今のインターネットって、そういうことを(正しいプロセスかどうかは別として)真面目に考えている人以外の人口が増えすぎていて、もはやお行儀(ネチケットみたいな話も含めね)の良さを期待する(よくしていく)こともちょっと難しくなっているとは思う。そうするとどうしても「ルール」の世界に踏み込まざるを得ない。であれば、ルールを決めようとしている人はなおさらロジカルな議論でルール作りをしてほしいんだけどね。タイムリーな話として都が「不快な表現」とか言い出したけど、こういうのが一番雑で社会をバカにしていると思う。

社会が正しさに疲弊している

維新の議員に投票するのなんてバカだ、と思う人はそれなりにいると思う。僕もそうは思う。一方で、じゃあどうすんの、と言ったときに、代わりの答えを明確には持っていない。そもそも維新がそんなに悪いのか。確かに差別主義者に見える。発言だけ見ると完全にそうだ。でも、差別的な条例を制定したのか。大きく報道されている限りではそこまではしているようには見えない。行政に対して破壊的な変更を行っているのは認識している。でもその破壊は旧来の問題も同時に破壊している。それが正しいことなのかは僕には評価できないけれど、少なくとも、彼らは何かを「やった」。

ドブ板選挙的活動が勝因だ、という分析も正しいと思うけど、なんだかんだいって、「彼らはやった」わけだ。明らかに間違っているのでは?と首を傾げたくなることもたくさんある。だから、個人的には支持することはできないが、政治において「xxをなんとかしてほしい」の一点が合致するだけでも投票するに値する、とジャッジすること自体はよくあることであり(そうじゃないと今回の野党共闘なんて意味ないよね)、だとしたら、差別的言動は「おいといて」、やってもらいたいことのために応援する(ましてや、個人個人が強く差別を打ち出しているわけではない。維新のそういうところは嫌いだけど、目の前にいる候補者は応援するよ)という人はたくさんいるだろう。

80年近く民主主義やってきた国としては、随分原始的な話のようにも思えるけど、理由を考えていくうちに僕たちはどうやら正しさに疲弊してしまっているからではないか、と思い始めている。

旧体制を打ち砕くのなんて、言ってみれば新しい利益集団に軸足を移すだけの行為だと思うけど、仮にそうだとしたって大企業病を打ち砕くような機能はあるわけだ。だから、結局選挙なんて「清く正しい社会を!」じゃなくて「私達に利益を!」が本音だよね。そういうことの繰り返しでは社会は「進歩」していかないけど、少なくとも停滞からの衰退を防ぐ機能は幾分かはあると思う。ただし、社会が無限に成長するわけではない以上、どこかでそういうところを切り替えていかなければならない。バブル崩壊あたりのターニングポイントになっていると思っていたけど、その後のデフレ不況によって、たどり着きたかった「正しい社会」までは道半ば、という状況で、後退し始めたのではないかな。

随分と、そういうことには抵抗してきたつもりでいるんだけど、疲弊した社会において、少なくなったパイの奪い合いをしなければならないなんて考えると四の五の言ってられないのではとも考えてしまう。

リベラルは我慢、ということを以前述べたけれども、本音を言うと、我慢なんてしたくないよね。余裕がある中での我慢ならともかく、お先真っ暗の中で、なにをどこまで我慢しなければならないのか。それでも日本人は我慢をしている方だと思う。我慢をしすぎてフラストレーションが溜まりすぎているのだとしたら、その解消に選ばれるのは、随分反動的な話になるのではないか。「正しさ」までもがそういう狂気に支配されつつあるような気がしてならない。リベラルは自らの「正しさ」に耐えきれなくなっているのではないか。