novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

自粛と検閲

自粛をするのと、検閲をされるのは、大きな違いがあるけれども、結果は似ているよね。

「出版社による検閲」みたいな言い回しがあるのは本来はおかしくて、私企業が自分の利益のために不都合なものは出さない、というのは検閲ではないよね。もっとも、「不都合なものを出す」ことがやりづらくなっている、というのはあるし、圧力に屈している感があるのはもちろんだけど、不都合なものを出版したら逮捕されるわけでもないし、「自分で刷って世に出しても問題ない」以上はそこで行われることは検閲ではない。

という観点でいうと、ネットで不買運動とか出版社に電話とかスポンサーに電話とかも、抗議で済めばよいけどダイレクトに結果を求めるのって国家権力ムーブみたいなものではあるよね。正義マンというか、あの人信号無視してます捕まえないのおかしいだろ的なね。とはいえ、相手が私企業な場合は不都合があればそりゃ引っ込めますわな。文化が守れるかどうかは大衆的な意味でいうと私企業の信念に任せるしかないし、一方で維持する役割をアングラがまた担うわけだ。ここで一つ問題なのが、もはやアングラがアングラとして存在し得るプラットフォームが少なくなってきた、ということ。地下出版だって支援したり買う人がいることで存在し得るんだけど、Webがプラットフォームの中心になった瞬間クレカ会社が決済しない問題などが出てきてしまうというわけでね。超アナログな手段に戻れるのであれば、どうかな、とは思うけど。

個人的には、不快に思う人が多そうな場に、不快に思う人が多そうな文脈を放り込むことは表現の自由という建前的には認められるべきだし、一方で不都合なものとして判断されやすくなるようなことを信念なしにやるのであればそのジャンルにとってマイナスにしかならないから止めとけよって思うわけですが。宗教の漫画の話もそうだけどさ、戦う気もないのに安直に提示してくるのってどうなの?ほんとそれだけだと思っているんだよ。不愉快の表明だけでは済まない国家権力ムーブの人たちと、当事者が逃げたあとに会話したくないし。

()の正体について

この手の話題はいつもそうなんだけど、まあまあ同時多発的にいろんな意味が使われ始めたものが少しずつ広まっていくと、違う用途の文化圏が衝突して噛み合わなくなりつつも次第に特定の意味に収斂していき、たまに一方の原義に近い使い方をする人が話が噛み合わなくて困る、という歴史をたどることが多いですよね。
一昔前には(ぉと(wについてもだいぶ議論が交わされたと思います。この手の議論、決めつけで何が正しいとか言い始めると大変不毛なのですが、いろんな成り立ちがあるよね、ということを認めながら議論していくと文化の特徴が垣間見えて面白い話にはなります。正しさではなく楽しさで知識を残したい、いつもそう思ってはいます(といいつつ、正しくないことは撲滅したい。両立しづらいけど、正しさを押し付けることと正しくなさをやっつけることってのは本質的には違う話なので、エビデンスがたくさんあるものについては両立するんですがね)。

こういう、ネットミーム的なものは、みんな「インターネット・ミーム」だと思っているフシがありますが、そもそもインターネット全史から存在するもので、まあインターネットと言ってもemail、ネットニュースだったり(つまり、WWWではない)、パソコン通信だったりする部分で行われてきたところがスタートですよね。特にパソコン通信においては文字数を減らすということがそこそこ重要な局面があったので…

というネット古参ムーブをかましたところで。

そういうことの起こりから考えると、まあこの省略のお作法みたいなところから生まれる言葉ってのはフランス語で8文字の単語が英語では4文字になっちゃう、語源がわからないものが合流しちゃう、というようなネットミーム関係ないところでも普通に起きている話ではあります。

(以下略→(略→(ry

なんかは非常にわかりやすいし紛れがない特徴を持っていますよね。(ryが途中まで入力して終わった状態というのはローマ字入力している日本人には一目瞭然なわけですから。
ちょっと毛色が違うけど「くぁwせdrftgyふじこlp」なんてのもわかりやすい。

(w

が難しかったのは元のネタ(古いパソコン通信仕草)にセルフツッコミであるところの「(おいおい/(ぉぃ/(ぉ/(を」の文化があり、そこから派生したものと、「(笑い/(笑)/(藁」から派生したものがあったからですよね。ですよねとか言っちゃってるけど、多分まだ原始的用法がいっぱいある可能性が高い。

じゃあ、()ってなんなの…ってなるとこれもう原型とどめてないので当事者の証言を集めるしかないんですよね。一応、本件トリガーの話題の中では(笑)の省略形、という意見がかなり多かったですね。

でもそれって違和感ありませんか?流石にこれを(笑)として認識してくれ、というのはちょっと無理があるようにも思えます。もう少し、「空である」ことに意味を込めて使われ始めた、という風に考えたほうが自然ではないか。もちろん、(笑)の省略形である、という事実に異を唱えるわけではありませんが、それってよーわからず使われ始めたものが収斂した結果なんじゃないかなって直感的には思います。こういうのを使い始める人が見た目のニュアンスに無頓着であるとはちょっと考えづらい。引き算で何かを表現するネット仕草の延長にある語尾と考えると、一つの起源はそれなんじゃないか、そう思うわけです。(このことは、他の起源を否定しているわけではありません。再三言うように、同時多発的に使われ始めるようなものなので、本当に最初から(笑)の省略形である、というのも当然ありえる話です)

少なくとも、僕の観測している界隈でこの()が使われ始めたとき、そこには「内容/感情/受容する気/がないというニュアンス」が込められていたように思います。ブコメもしましたが、個人的には(棒)が表しているような、「ソウナンデスカーヨカッタデスネー」的なニュアンスですね。こういう使い方であれば「空である」ことに相応の意味が出てきます。
でもこれって相当ネット強者(褒めてない)でないとそういう意味を取ることは難しいというか、その手のネットスラングの集大成としての省略形である、なんてわかんないですよね。だから、もっともポピュラーであるカッコ付表現である「(笑」の省略形として収斂していくこともまた自然なことではあります。

このような、「意味がわからないけど流行っているから使ってみる」ことで言葉の原義が次第に失われていくような事例は省略形や語尾に限らずネットに溢れていますよね。

なので単一の意味しか持たないとして、その意味を他人に押し付けるのって中々難しいことではありますし、それこそ辞書見たらわかりますよね。簡単な単語ほど、多義的に使われている。

一方で本当の専門用語を雑に扱う、ということが起きるのもネットの良くないところです。日常会話と専門用語、ちゃんと分けて考えましょうね。

社会を変えるために「言う」こと

僕だって単に駄文を垂れ流している、というのが客観的な事実ではあるんだろうけど、主観的には「自分の意見が社会に少しでも影響を与えたらいいな(逆に、社会からのフィードバックで自分の間違った意見は直せればいいな)」と思って書いているわけです。言わないと伝わらないからね。

とはいえ、それで社会が「自分の考えた正しい方向に」変わるという期待値はものすごい低い。それはそれで良いのですよ。さざなみでも起こせれば何かの役に立つかもしれない(世の中にプラスとは限らないけど)。結果を出すことを目的にしていないから、というのは大きい。逆に言えば、社会を変えるという結果を求めて運動することはそういうレベル感の活動ではいかんということです。だから、強度の高い運動となるし、その結果としてものすごい勢いで誰かの利害と衝突します。表現の自由周りで僕が辟易しているのは、そういう利害の衝突について大変無頓着な人たちが自分たちの理屈を押し通すためだけのロジックを主張していることなんだよね。利害調整したら共存共栄できるかもしれないことも無視されることが多いと感じます。もっとも、利害調整をすると運動の強度が下がる。これは普遍的な事実かと思います。でも、強度の高い運動で実現したことって社会的に本当に正しいんだっけ、ってなることもありますよね。最終的な結果に辿り着く前に、この部分で脱落してしまう運動も数多くあるように思います。だって下手したらロシア攻めてくるじゃん。

例えばですが、利の中心が「気持ち」の場合にそれに引き換えとした害が大きすぎるとき、社会的にはその主張は採択されない、ということも多いですが、別にそれって気持ち自体が否定されたわけじゃないけど、社会的にそれを認容することが問題大きすぎるので無理だから我慢してな、ということでしかないんだけど、強く運動すればするほど気持ちが否定されたという風に受け取られがちですよね。運動の強度が高いというのはそういう問題もある。少なくとも、気持ちを押し通す主張において、他の権利を侵害する形でしか実現されないような方法論を取ってしまうことは、失敗の元になります。利害って言ったけど、ようは他人のことも尊重しながら問題点をすり合わせていく(いきなりお前はおかしいとか言い出さない)というのが大事ってだけですよ。反論って否定が一番ラクなんですよ。気持ちの否定同士で戦うのが一番楽で、一番不毛です。子供の喧嘩でしかない。大人の喧嘩はもっとロジカルであるべきだよね。

これは、気持ちを表明することの否定では決してありません。言うことも自由だし、反論されることも自由。ただ、何かを言ったからといって人格を毀損されるのはおかしいし、逆に人格を毀損するようなことから議論をスタートするのもダメですよね(まあ、ロジカルでないことをバカと表現すると人格否定だ、みたいに言われることもあってコミュニケーションってのは難しいわけですが)。Web1.0の頃の議論のお作法って、どんなに文言は罵倒してきつかったとしても、ロジカルに議論に向き合ったほうが勝ち(議論が続いているのに不戦敗状態の人もたくさんいた)、という客観的な評価がしやすかったとは思います。まあTwitterのリプバトルとブログのトラババトル、どっちが議論として向いているかってのはありますけれども。

ともあれ、「言う」ことはとても大事だし、言った方も言われた方も言ったことだけで過剰に反応したり強く結果を求めたりしない、というお作法が成り立つのであれば、もっとWebは闊達な意見交換の場になるはずなんですよね。僕は少なくともかつてそういう片鱗を見せたウェブに住んでいた気がしているんだけど。

「勝たないと目的が達せられない」というのは、運動の初手から考えることではないと思うんですよね。