novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

社会を変えるために「言う」こと

僕だって単に駄文を垂れ流している、というのが客観的な事実ではあるんだろうけど、主観的には「自分の意見が社会に少しでも影響を与えたらいいな(逆に、社会からのフィードバックで自分の間違った意見は直せればいいな)」と思って書いているわけです。言わないと伝わらないからね。

とはいえ、それで社会が「自分の考えた正しい方向に」変わるという期待値はものすごい低い。それはそれで良いのですよ。さざなみでも起こせれば何かの役に立つかもしれない(世の中にプラスとは限らないけど)。結果を出すことを目的にしていないから、というのは大きい。逆に言えば、社会を変えるという結果を求めて運動することはそういうレベル感の活動ではいかんということです。だから、強度の高い運動となるし、その結果としてものすごい勢いで誰かの利害と衝突します。表現の自由周りで僕が辟易しているのは、そういう利害の衝突について大変無頓着な人たちが自分たちの理屈を押し通すためだけのロジックを主張していることなんだよね。利害調整したら共存共栄できるかもしれないことも無視されることが多いと感じます。もっとも、利害調整をすると運動の強度が下がる。これは普遍的な事実かと思います。でも、強度の高い運動で実現したことって社会的に本当に正しいんだっけ、ってなることもありますよね。最終的な結果に辿り着く前に、この部分で脱落してしまう運動も数多くあるように思います。だって下手したらロシア攻めてくるじゃん。

例えばですが、利の中心が「気持ち」の場合にそれに引き換えとした害が大きすぎるとき、社会的にはその主張は採択されない、ということも多いですが、別にそれって気持ち自体が否定されたわけじゃないけど、社会的にそれを認容することが問題大きすぎるので無理だから我慢してな、ということでしかないんだけど、強く運動すればするほど気持ちが否定されたという風に受け取られがちですよね。運動の強度が高いというのはそういう問題もある。少なくとも、気持ちを押し通す主張において、他の権利を侵害する形でしか実現されないような方法論を取ってしまうことは、失敗の元になります。利害って言ったけど、ようは他人のことも尊重しながら問題点をすり合わせていく(いきなりお前はおかしいとか言い出さない)というのが大事ってだけですよ。反論って否定が一番ラクなんですよ。気持ちの否定同士で戦うのが一番楽で、一番不毛です。子供の喧嘩でしかない。大人の喧嘩はもっとロジカルであるべきだよね。

これは、気持ちを表明することの否定では決してありません。言うことも自由だし、反論されることも自由。ただ、何かを言ったからといって人格を毀損されるのはおかしいし、逆に人格を毀損するようなことから議論をスタートするのもダメですよね(まあ、ロジカルでないことをバカと表現すると人格否定だ、みたいに言われることもあってコミュニケーションってのは難しいわけですが)。Web1.0の頃の議論のお作法って、どんなに文言は罵倒してきつかったとしても、ロジカルに議論に向き合ったほうが勝ち(議論が続いているのに不戦敗状態の人もたくさんいた)、という客観的な評価がしやすかったとは思います。まあTwitterのリプバトルとブログのトラババトル、どっちが議論として向いているかってのはありますけれども。

ともあれ、「言う」ことはとても大事だし、言った方も言われた方も言ったことだけで過剰に反応したり強く結果を求めたりしない、というお作法が成り立つのであれば、もっとWebは闊達な意見交換の場になるはずなんですよね。僕は少なくともかつてそういう片鱗を見せたウェブに住んでいた気がしているんだけど。

「勝たないと目的が達せられない」というのは、運動の初手から考えることではないと思うんですよね。