novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

猛獣注意の看板があるのは社会が悪いのか

こういう思考トレーニングをちょいちょいやるのは色んな意味で大事だとは思っている。

  • 「注意」であり、進入禁止ではない。リスクの提示であり、自己責任の範疇で侵入が許されている
  • 猛獣が駆逐できていないのは社会の問題なのではないか
  • 猛獣にも生きる権利があり、絶滅させることは生物多様性の考え方に反する
  • なぜ侵入禁止にしないのか。猛獣と戦える力がある人だけ侵入が可能なのは平等の精神に反するのではないか
  • ミクロなエリアに平等を保証することは必ずしも社会の役割ではない
  • 禁止にしないことが社会全体の利益に繋がる(あるいは不利益を減少させる)のであれば、禁止にしないことは侵入できない人の利益にもつながっている
  • そうは言っても個人の視点でいうと不平等を感じる
  • コストと優先順位の問題が存在する

総じて、コミュニティー(今のところ最大のものはグローバル、最小単位は一旦家族かな)というのはその全体の利益と個々の利益をバランスさせて全体の最適化を図ることが幸福への近道だと思うし、そこから逸脱することはコストの増大につながるから、

  • コストを下げるような変容を求める(実践する)
  • 利益だと思うこと(思想)を全体に敷衍する

ことで全体の最適化のゴールを変えることが社会運動の一つの目的と定義することができると思うが、ミクロの利益を達成することにフォーカスしてしまうと、コミュニティーの現時点のルール・原則に大きく抵触する可能性がものすごく高い。自分たちにも利益がある、ということが社会を変える最大の原動力であり、それは「大多数の意見」であれば通りやすい。少数の意見が多数の利益を奪うものとみなされている場合の変革可能性はものすごく低い(しばしばこれは革命によって実現されるたぐいのものだ)

そういう意味では「為政者や行政にすり寄って甘い蜜を吸わせる代わりに自分たちの利益を認めさせる」という戦略は非常に有効とも言える。そして、そこで実現されるのは社会の変革ではなくて、プレイヤーの置き換えにすぎない。社会の変革がお題目な場合にそれがそういうたぐいの利権争いなのか、真に変革を志しているのかというのは外側からは見極めづらい。
現代の社会のルールとしては市民による監視が認められており、それによって不正を判断することが可能だ(黒塗りは言語道断だと思うがなああ…

おそらくだが、大衆はある程度馬鹿だ、ということを前提に社会が成立している点はあり、そこを改善することがある程度は可能と思うが…

コストの低い批判はリスクは高いよね

どうもこの辺の話はいい落とし所がないなあと思っているんですが、僕としても昔、内容的にちゃんとできてたかはさておき、丁寧にブログでやり取りしていたときに比べるとまあ雑になったなあとは思っているんですが、そんなので済まされるのは社会的に影響力がない人としての特権みたいなものです。それこそ10年前は今よりももっとバズりやすい環境下で色々書いていたんで、いつか言いたいことを言わないようになるんだろうかと思ったこともあるんですけど、幸い?なことに、ブログというもののパワーが落ちてSNSに移行したことによりせいぜいはてブで言いたい放題いうくらいの立場に落ち着いたかな、と思ってはいます。泡沫って素晴らしいですね。

なんにせよ、SNSを言論プラットフォーム的な扱いで利用するのは色んな面で間違っていると思うので、みんなよーやるよなあとは思うんです(最近実験的に連投とかしたりはしてみてるけど、たしかにブログで書くよりめんどくさくない、という面はあります。全然推敲できんが)。

ともあれ、批判というのは真面目にやるものであって、感情が先走っちゃったときは後からちゃんと謝ることにしてる。ブログでやるってのは長文書いている間に気持ちが落ち着く、という効果もある(し、落ち着きすぎてあれこれ書かなくてもいいやつじゃんってなって闇に葬ることすらあるw)。

炎上したりとかは運も結構あったりするけど、基本的にはやはり姿勢の問題はあって、大抵の場合は雑であることがトリガーになる。雑な批判ってする方は雑で、されるほうは嫌(反論にはコストがどうしてもかかるから)なんだけど、まあ批判された側が雑な批判に真面目に(コストをかけて)応対し始めると大変面倒なことになりますよね。


僕はいま界隈で起きているのはそういうことなんじゃないかとずっと思っていて、ようは、余計なことに首突っ込むからいけないんじゃんって話で。

人を呪わば穴二つってのはまさにこのことで、せめて首突っ込むならその話題そのものできっちりやりとりしてほしいけどそれやらないで無視したり人を馬鹿にしたりするからじゃあお前の活動自体を批判してやるぜってなるんだよ。それお前が他人にやっていることの裏返しだからね、という話だし、自分がやっていることは雑だけど返ってくるときはたいてい雑ではない、ということなんだよなあ。だからあまり同情できない。

あいつを黙らせろ

こんなところまで駄文を見に来てくれているありがたい皆様方には言うまでもないことだと思いますが、殺害予告はいけませんね。
もっとも、殺害予告をするような人は殺害予告がダメと思っていないか、思っていてもバレなければいいやって思っているかでしょうし、そういう意味ではいくらみんながダメって言ってもそういう人がいなくならない限りはなくなることなんてないでしょう。

でも殺害予告ってなんでやっちゃうんでしょうかね。色々考えてみているんですけど、すっごい単純に言うとお手軽だからなんだろうな。それにしては危険な手段だと思いますが、逆に他の手段がしんどいからだ、とも言えそうです。聞く耳持ってくれなそうで、かつ、その言葉が社会的な影響力を少なからず持つような相手に文句を言うのって、反論コスト高すぎますよね。それが本当に絶対的な正しさをもっているんならともかく、利害が対立しているだけであればなおさらだんまりしたくないけど何かをいうのもしんどいみたいなね。

表現の自由(戦士)にしてもフェミニストにしても、元々社会の規範そのものを塗りつぶそうなんて思っていないはずで、本来であれば対立したり塗り方の違う思想同士が社会でどう折り合いをつけていき、どう社会が変わっていくべきか、という話であると僕なんかは思うわけですが、どうも一度ある程度結果を出すとそれが正義で社会全体が必ず受け入れなければならない価値観である、という態度で迫ってくる人もそれなりにいるんですよね。いやいや、そこまでの話って先人が一生懸命ロジックを作って他者に納得してもらうための説明を繰り返してようやく成り立っている場所なんですよ。それを巨人の肩かのように乗り回してる人いますけど、そんなに強固じゃないでしょそれ。

そういう先人の努力ぶち壊しムーブメントが最近の流行りですよねえ。なんか「お気持ち」なんてのもそういうムーブメントに対して正面からぶつからないための交わし方みたいな要素があるんじゃないかと最近思いますね。先人の議論の価値を認めれば認めるほど、今の雑な適用についてたとえ自分の立場が反対方面だったとしてももったいないって思っちゃうわけです。

絶対正義を盾に迫ってくるように見える人がいた時、どうしますかって話になると反論の手段やコストを持ち得ない人が短絡的な動きに出てしまうのはわからんでもないし、雑な批判はそれを誘発するような行動って要素はあると思うんだよね。というか、敵対的態度に見えるってのが一番良くないんだろうな。世の中をよくしよう、と思ったときに自分の意に沿わないものをとにかく消し去ろう、というやり方は急進的な動きに見えるし、急進的な動きには急進的な対抗策が取られる、というのってまあまあ原理原則に近い話なんじゃないかと思うんだけど、みんなTwitterみたいなところになるとなんでそういうの気にしなくなっちゃうんでしょうかね。