こんなところまで駄文を見に来てくれているありがたい皆様方には言うまでもないことだと思いますが、殺害予告はいけませんね。
もっとも、殺害予告をするような人は殺害予告がダメと思っていないか、思っていてもバレなければいいやって思っているかでしょうし、そういう意味ではいくらみんながダメって言ってもそういう人がいなくならない限りはなくなることなんてないでしょう。
でも殺害予告ってなんでやっちゃうんでしょうかね。色々考えてみているんですけど、すっごい単純に言うとお手軽だからなんだろうな。それにしては危険な手段だと思いますが、逆に他の手段がしんどいからだ、とも言えそうです。聞く耳持ってくれなそうで、かつ、その言葉が社会的な影響力を少なからず持つような相手に文句を言うのって、反論コスト高すぎますよね。それが本当に絶対的な正しさをもっているんならともかく、利害が対立しているだけであればなおさらだんまりしたくないけど何かをいうのもしんどいみたいなね。
表現の自由(戦士)にしてもフェミニストにしても、元々社会の規範そのものを塗りつぶそうなんて思っていないはずで、本来であれば対立したり塗り方の違う思想同士が社会でどう折り合いをつけていき、どう社会が変わっていくべきか、という話であると僕なんかは思うわけですが、どうも一度ある程度結果を出すとそれが正義で社会全体が必ず受け入れなければならない価値観である、という態度で迫ってくる人もそれなりにいるんですよね。いやいや、そこまでの話って先人が一生懸命ロジックを作って他者に納得してもらうための説明を繰り返してようやく成り立っている場所なんですよ。それを巨人の肩かのように乗り回してる人いますけど、そんなに強固じゃないでしょそれ。
そういう先人の努力ぶち壊しムーブメントが最近の流行りですよねえ。なんか「お気持ち」なんてのもそういうムーブメントに対して正面からぶつからないための交わし方みたいな要素があるんじゃないかと最近思いますね。先人の議論の価値を認めれば認めるほど、今の雑な適用についてたとえ自分の立場が反対方面だったとしてももったいないって思っちゃうわけです。
絶対正義を盾に迫ってくるように見える人がいた時、どうしますかって話になると反論の手段やコストを持ち得ない人が短絡的な動きに出てしまうのはわからんでもないし、雑な批判はそれを誘発するような行動って要素はあると思うんだよね。というか、敵対的態度に見えるってのが一番良くないんだろうな。世の中をよくしよう、と思ったときに自分の意に沿わないものをとにかく消し去ろう、というやり方は急進的な動きに見えるし、急進的な動きには急進的な対抗策が取られる、というのってまあまあ原理原則に近い話なんじゃないかと思うんだけど、みんなTwitterみたいなところになるとなんでそういうの気にしなくなっちゃうんでしょうかね。