novtanの日常

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「謝らせないと死ぬ病」は存在するのか

かつてウェブで様々な議論華やかりし頃、正しいこと、間違っていること、どちらとも言えないことが錯綜し、リテラシーの重要さを学び、ベテランのウェブサーファーになるかネットに洗脳された哀れな犠牲者になるかは紙一重だった気がしなくもない世界でしたよねえ。
僕も例に漏れず、今思うと不毛とも言えるやり取りを多数行っていて、しかし、そこでやり取りをした結果として得たものも多かったというウェブ人生を歩んできたわけですが、別に議論に「勝った」記憶はないし、いわれなき侮辱に対して謝罪を要求したことは確かにあった気がしなくもないし、謝った事もあったと思うんだけど、さて、「謝ったら死ぬ病」とか「謝らせないと死ぬ病」はそこにあったのだろうかと思い返すと微妙な結論しか出てきませんが、あるないで言えばあったなあ、とは思います。

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僕はこういった、いろんな背景を曇らせて認識の幅を狭めてしまう強い言葉があまり好きではないのですが、こういった問題を分かりやすくするという意味で、矛盾を承知にあえてこの毒の効いた表現を拝借したならば、ネット上には間違いなく「謝ったら死ぬ病」より「謝らせないと死ぬ病」と呼ぶべき人のほうが多いのかもしれません。

間違いなく~かもしれませんというのは中々弱腰な表現ですけど、まあよく政治家とか「謝罪はするけど訂正はしない」みたいなのあるじゃないですか。そういう意味で謝罪を求めるというのは実は全然目的に到達しない可能性が高い話であり、僕としては事実誤認であれば訂正すれば良いし、その過程で失礼なやり取りがあった場合はそれを謝罪すべき、とは思っていて、謝罪というのはつまり「議論に向き合う態度が誠実ではなかった」という結果に対して行うべきものだ、と考えてはいます。
なので、「謝りたくないから訂正しない」という「謝ったら死ぬ病」というのは確かにあるとは思っています。なぜなら、「態度が誠実でない」ことが自らを毀損するような立場の人というのはいるわけです。そういう人は訂正する=謝るになってしまう過程を経過した場合、まさに「謝ったら死ぬ」という状況になっているわけですね。もっとも、その謝ったら死ぬは本質的には立場よりプライドが問題ではあると思います(特に客観的に議論における敗北が明らかな場合に謝らない=訂正しない方がより問題視されるパターン)。あるいは信者に支持されれば十分的なパターンも有りますが。

じゃあ、「謝らせないと死ぬ病」は本当にあるのか。まああるでしょうね。言及先の記事においてはこの言葉は特に「当事者でない」ことが要件として上げられていますが…別にそんな外野のことどうでもよくない?そうか、この「謝らせないと死ぬ病」って「謝ったら死ぬ病」とは全然関係ない別の話じゃないか。じゃあどっちが多いとかそういう比較も意味ないよね。

とオチがついたところで終わってもいいのですが、もうちょっと考えてみる。そもそも「謝らなければならない」または「謝ったほうがよい」行為がそこにあるとき、そうすべきと当事者以外が言い出すのは「正義」というよりは「秩序」の問題じゃないか(正義はそれを実現するための価値観であったり手段であったりはするかもしれないけど)と思うわけ。つまり、「悪いことをしたら謝るべき」というのは普遍的な概念としてそれほど違和感があるわけではない(というのが日本における一般的な倫理観だと思う)。であれば、謝ることを求めない事自体はそれなりに倫理から外れている可能性はあるわけ。もっとも、「悪いこと」のレベルの捉え方が人それぞれであり、一方で謝罪を求めることには種々のコストが掛かるが当事者以外はそれを負担しない(ので「要求だけならタダ」の部分に乗っかってしまう)ということになってしまっているわけ。結果として当事者が「謝るべき」と考えた場合、場合によってはコストを度外視して(例えば法廷に持ち込むとか)謝罪を要求することもある。

ということを念頭において考えると「謝ったら死ぬ病」というのは「死ぬ」という形容にそれなりの妥当性がある(社会的あるいは別の何かにおける概念的な死として)一方で「謝らせないと死ぬ病」というのは死ぬというよりは単に正義を喚いているだけであって結果的に謝られなくても概念的に死ぬべき何かが存在しないので形容としては成立しない、のではないかなあという何を検証したかったかわからない結論でこのエントリ終わり*1

*1:ちょっと昔風のエントリを書いて見るテスト