大きな事件が起きると瞬く間にパニック的言動がウェブを埋め尽くすってのは古今東西どこまで行っても変わらない話だと思ったりもするんだけど、事実がわかってきたあとの冷静になる時間においてもデマに踊らされる人の多いことよ。
これは議論の仕方がわからないことによる結果起きているのではないか。最も正しそうなことを「検証」するための議論の場合に結論ありきで相手をやっつけるためのことばっかり話すとかね。仮説検証において仮説が棄却されることを敗北と捉えたりね。
信念同士の戦いにおいて、勝った負けたが存在することは否定出来ない。でもさ、事実かどうかの検証とかそういったところに信念を持ち込んでいる場合、それ自体がすでに議論ではなくなっていることがほとんどだよね。
よく海外でディベートの授業をやるって話を聞くけどあれも一長一短ありで特に「オレはディベートには負けたことがない」みたいな人は厄介くんだと思うんだけど、議論において信念とは切り離されて(どっちの側かは選べないから)ロジックを組み立てて、「負ける」経験を積むってのは貴重だ。もっとも、「負けたら悔しい」より先にロジカルに議論をすることの大切さが身につかない人は結構いそうだから良いことばかりではない。
良い議論は創造のプロセスに似ていて、自分の主張や仮説がめためたにやっつけられたとしても結果として明らかになったことが当初の目的に叶っている以上、残るものは敗北感ではなく達成感であり、自分が提示した主張や仮説が棄却されたことそのものも大いなる成果(それがこの場合適用できないという事実を捉えることが出来たという点が特に)であるという風に思えるならば大成功であるよね。目的を見失った議論は良い議論とは言えないし、目的を叶えようとするばかりに強引な結論付けをすることも良い議論とは言えない。
煽りに負けるような話は根拠の無い信念みたいなものが多いだろうし、そういうものを自ら疑ってかかることが出来ないのは議論をしながら認識をレベルアップさせていくような成長の仕方を教わってこなかったツケなんだろうと思うと、教育のありようとかをもう少し考えていかないと未来は明るくならないなあと思ったりもする。もっともこういう話に親和性の高い科学の分野ですら捏造とかそういうことになってしまうのはその辺りも一因な気がする(もちろん、最大の要員は個人の利益の問題だろう)。