novtanの日常

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いじめ被害者と加害者の赦しについて

犯罪者とかそうだけどさ。なんどか書いているつもりだけど、赦しってのは免罪とは違うんだよね。罪は罪として、一生背負い続けなければならないし、そこに向き合うことも必要で、それは同様に被害者側の負担を軽くする行為でもあると思う。

で。

山本弘氏は、自らの発言の最初で「いじめ被害者だった一人として言わせてもらうと」と言っています。これはつまり、自分は、十分更生したなら、たとえ自分をいじめたいじめ加害者でも許すということでしょう。もちろん、山本弘氏が自分自身の意志でそういう選択をすることは否定しません。
僕が「おかしいんじゃないか」と思うのは、そうでない考え、つまり「自分はいじめ加害者が例え更生したとしても、その人のことを許しはしない」という、自分の考えと異なる考えを、「危ない思想」として否定することです。

「反省したいじめ加害者のことを『許さない!』と、いじめ被害者が主張するのは、危ない思想(by山本弘)」なのか - あままこのブログ

多分。多分だけど、これは僕の解釈とはちょっと違っていて、被害者と加害者の問題を「外野がこうでなければならないと規定するべき」ということが「危ない思想」と言っているんだと思う。id:amamakoさんの考えとほぼ一緒だと思うんだよね。
『聲の形』に最初に出た大きな批判が「加害者があんな形で許されるべきではなく、被害者とくっつくべきでもない」的なやつだったからって背景を考えると山本氏が言っているのは「外野の声」のことだと僕は解釈すべきだとは思う(あの人そういう批判を拾って言っているんでしょ)。

で。

まあね、人間は過去はどうあれ、現在を見るべきだと思う。ただ、その現在と言うのはもちろん過去の積み重ねで成り立っているわけであって、人を虐めていた過去を「昔はやんちゃで」とかそういう類の箱に押し込めて自身の行為と向き合っていない「現在」があるのであればそれは赦すべき成長を遂げていないし、そうではなく、きっちりとそういった過去に向き合った結果、人間とはこうあるべきという考えに従って人生を歩んでいるのであれば、それは認めてあげようよ、とかそういう話にすぎないんだけどね。

だから、あの映画に対する加害者が許されることについての批判が「正しい」社会は僕も危険な思想を孕んでいると思う。