novtanの日常

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断絶の時代、平成を終わるにあたって

昭和の終わり頃生まれの僕らの世代にとって、昭和というのは物心ついてから間もなく終わったもの(といっても僕は中学生くらいまでは昭和だった)でしかなくて、およそ平成において青春を過ごしてきたことになる。だから、親世代の行動は昭和であるし、僕たちは平成であり、そこに大きな違いはある。そもそも、団塊の世代で東京に出てきた両親を持つ家庭なんて、多かれ少なかれ何かと断絶してはいるんだけど、一方で、それを補うためのコミュニティーはあったし(会社が持っている団地なんかはそれが顕著だ)、それに頼らないと生き抜くことが難しい面もあった。それを踏まえてみると、平成の日本の景気は都会における家族単位での断絶をようやく達成するほどにはよかったところから始まっているんだろう。

新しい価値観として、同調しないことが「求められる」というのが昭和終わり世代にはあったと思う。何かと言えば、個性、個性。個性ほど苦しいことはないのに。みんな違ってみんな良い?みんな同じのほうが楽に決まっているじゃないか。制服然り、スーツ然り、同じ番組を見て、同じ漫画を読んで、ワイワイやっていることの何が悪いのだろうか。過渡期っていうのはそんなものなのかもしれない。

平成も半ばになり、ウェブという「つながる」ためのツールがその平成の終わりにもたらしたのは、しかしやはり断絶であった。こんなにもコミュニケーションの距離が短くなったというのに、相互理解など夢のまた夢、人は自分が信じたいものを無理やり信じる、という悪弊が最大限の威力を発揮しているよね。少数の人とだけつながっていたときは、断絶していないがゆえにお互いの違いに敏感で、価値観の相違について泣くほど話し合ったものなんだ。今の、同じ価値観を持つ人達が寄り集まって自分たちの考え方が正しいと思いこんでしまうのは、それとは違う。その、繋がり合っている一点以外の、人間としての部分で本当につながっているのかな?同じ価値観を共有しているのは、理解し合った帰結じゃなくて、もっと表面的なものなのではないのか?

とはいえ、僕たちがこうしてウェブを通じて行っているコミュニケーションなんて、過渡期の産物を利用しているものでしかないと思う。言ってみれば、ポケベルと大差ないのだ。あと何年かたったら、僕たちはもう少しマシなコミュニケーションツールを手に入れていて、新しい世界に生きていると信じている。