novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

空気を読め、オレは読まないけどな

表現の不自由展に限らず、なんだけど、現代アートというもの(の、主に社会的な批評性)は文脈ありきのものではあるよね。外部的な文脈が会って初めてアートとして成立するようなもの(それこそ、便器をただおくことがなぜアートになるか的なね)。

展示物として相応しいかどうか、あるいは、その芸術性のレベルはどうか、というものにしたって、それが単体での芸術性を持つものなのか、総体的あるいは相対的な芸術性なのかで評価が難しいこともある。ようは、その展示会から切り離したときにアートとして存続し得ないものだってあるわけだ。

だから、「表現の不自由展」という強い文脈下におかれた作品?をそこから切り離して問題とする、というのは言ってみればゾーニングがなぜ成立しうるのかに通じる重要な事案なんだけど、なぜかそこにある展示物そのものの妥当性への非難が行われているよね。それこそ、ストリップ劇場行ったらわいせつ物を見せられた、みたいな難癖でしかないと思うだけど。

だから、ヘイトスピーチに満ちた展示空間、というのも本来は成立しうる、とは思っている(今回のはそういうものではないが)。

一方で、「公共であること」の難しさ、というのは並行して存在する課題だ。ここにおいても、公共性から逸脱しているかどうかの判断は展示物そのものではなく、文脈について判断すべきではあるよね。

問題はそういう社会を成立させている不文律みたいなものを無視して批判(非難)するというのがわりと容易だ、というところにある。これまでの日本が狭い国土のわりにその中でも更に狭い地域での強い文脈(因習とも言う)を持っていた反動で、「抑圧から自由になり、本音を語ることが正義」みたいなものがさも真実かのように語られていることも多いと思うけど、僕たちはそういった因習的なものとは別に、民主主義国家としてのあるべき考え方にある程度縛られて社会を形成しているわけだから、そこのルールを抑圧と同じレベルで「打ち砕くべきもの」と捉えてはならないわけだ。他国の民度を揶揄する人が本邦のそういった民度の低下を憂いてないことが問題の本質的な部分なのではないかとは思う。

つまり、今回の問題は表現の自由の問題ではなく、民主主義存亡の危機といっても大げさではないだろう、と思う。展示内容が悪いからガソリン火付けで脅されても当然?んなわけねーだろ。こんなんじゃそのうち「銀英伝が予告してた」みたいになっちゃうぜ…そろそろ憂国騎士団来るよね(香港ではもう来ているような気もする)