大多数の人間が善良公平公正である、あるいは、あるべき、というのは現代の進歩的な社会を構成するための大きな要素である一方で、現実はそれに即していないことをなんとかそう近づけようとする試みがいろいろな運動として行われているわけだ。つまり、大多数の人が善良公平公正ではない、というのが社会の現実であり、また、一部の悪辣な人間がいることを踏まえた場合にどれだけ善良公平公正な人が犠牲を払わなければならないか、を考えなくてはならないのも社会の現実ではある。
単に善良公平公正だけにフォーカスして達成しようと思えばそれは厳格な管理社会にするのがイージーだと思うけれども、それは文明かもしれないが文化ではない、すなわち、人間社会ではない、と考えても良いと思う。
ってなったときに、イレギュラーなもの(平たく言うと、悪いやつ)をどう判断してどう対応するか、というのが社会の規範やルールに影響を及ぼすわけだ。これの一番単純な形が「よそ者は来るな」だよね。誰もが善良であり、社会のリソースに余裕があり、必ず密接に関係しなくてもいい程度の距離を保てるのであれば、「他者」を排除する積極的な理由はなくなる。
男女の身体性の差異における力の非対称性がモノを言うのは、それにモノを言わせて何か不正なことを行うからであり、それが行われないことが保証されるのであればその差異は便利さ程度の話(どっちが便利かは場合によるよね)でしかないわけだからね。
ずっと前からロバート・J・ソウヤーのネアンデルタール・パララックス三部作を読みなさいって言っているのはこのあたりの話の思考実験や皮肉として優秀だなって思うからなんだけどさ。
夜道が危険なのは夜道を安全にするほど社会(=人間)が成熟していないのが原因ではあるんだが、原因が社会だから夜道は危険なんだよね。つまり、何を信用し、何を諦めるのか、という話でしかないし、理念が正しければ世界が正しくなるわけではないことの典型だよね。
だからこそ、理念で世界の認識を変えようとしている人ほど、現実の危険性を訴える人にきちんと向き合わなければならない。これは例えばブラック企業の追求なんかでも同じで、そこで働いている人の現実について「そんな会社で働くのが悪い」と片付けてしまっては「夜道で出歩くのが悪い」と一緒だってことに気づかないといけない。
差別はいけない、でも、現実は隣人が怖い、となったときにじゃあどうしようって考えるのがあるべき話なんだけど、それを差別はいけないで片付くと思っているのか。
そう、現実には理念と相反する、あるいは障害となる問題が横たわっているよね。だからといってそれだけを理由に理念を諦める必要はない。でも、これこれという現実があるからその理念は受け入れないと言い募る人が、自分の主張している方の理念は現実の問題のほうが間違っているって言い放ってまともに受け取ってもらえると思っているのだとしたら。世界を変えるってのはそう単純なことではないよね。単純にやりたいなら同じ理念を持つ人達で無人島を買い上げるべきなんだと思う(ところがウェブには無人島がないってことにも速く気づいたほうが良いよね)。