novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

「疑うこと」にどれだけコストを掛けるかはよく考えたほうが良い

僕だって、例えば「医者の無謬性」なんて信じていないから、医者が言ったことだから無条件に信じるわけではないけれども、一方で「常に疑いの目を向ける」かというとそういうわけでもない。疑うことには相応のコストが掛かるからだ。なので、標準医療を基本的には受け入れているし、教科書の記載はおおよそ正しいことを前提としてこれまでの知識が築かれている。古い概念のアップデートが進まないのは難点ではあるが、「新事実!」の受け入れには慎重にはなる。

そういう目線で世の中を見ていると、まあまあ「この人は信頼しても大丈夫そうだ」という人は見つかるし、その人を起点に情報収集するとそれなりの品質で情報が集まる、という認識でいる。もちろん、そういった人であっても無謬性を持ちうることはないので、「そりゃ違うだろ」って思うことを言ったりすることもよくある。でも、それが特定のカテゴリーの信頼性に影響を与えないのであれば、それだけ無視していればいいもんね。

そういった、「そこそこ信頼できるであろう自分の知識」からかけ離れたものが提示されたときに、自らの常識を疑うことは簡単なんだけど、その新しいものを信頼できるところまで持っていくためには、既存の知識を否定できるかどうか、ちゃんと調べなければならないし、結果的に合ってた、間違ってた、のどちらになるかは予め決まっているわけではない。だから、疑うコストを掛けるに値するのか、というフィルタリングがまず出来ないと、時間がいくらあっても足りないんだよね。

ここで罠があるのが、そのコストを掛けたことによるバイアス(例えば、コンコルド効果みたいなもの)は、最初に「こうかもしれない」という先入観を抱いた場合、コストを掛ければ掛けるほどその先入観に従った結論が出るまで調査を続けてしまう(結果として、間違った情報によって間違った判断をする可能性が高まる)、ということだよね。疑って調べる、という時点ですでに罠にハマっている可能性すらあるわけだ。だから、そういった行動を正しく取るには願望に左右されない強い心が必要だったりするし、掛けたコストをまるっと捨てられる思い切りの良さも必要だと思うのよ。
「わからないことがわかった」みたいな考え方ができることも重要なんだよね。例えば、ある種の実験は「仮説が正しければ有意差が出る」ようにデザインされているけど、有意差が出ないことがある。これを「有意差が出なかった」という結論として納得できるか、という話。企業紐付き研究なんかだと「有意差はないが可能性がある。次回作にご期待ください」みたいな謎結論にたどり着くこともよくあるよね。

「疑いを持つ」ということは大事なことだと思うんだけど、やり方を間違えると何かを盲目的に信じるよりも悪い結果になるかもしれない、ということは心に留めておいたほうが良い。