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novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

抑圧とまなざされ

社会 Web

どんなジャンルでもだと思うし、全部が当てはまるわけじゃないと思うけれども。

そもそも、抑圧(あるいは縛られている)と感じることにおいて、その力が働いている原因がある種のバーターの結果であることはそれなりにあると思う。何がしか制約を感じることと引き換えに、一定レベルの力から守られるているというようなね。

で、自由になりたいわけじゃないですか。自由になるじゃないですか。まなざされるじゃないですか。

まなざされるってことは(全てがそれだとは言わないけど)、自由になった証拠であるし、自由の代償でもある。まなざされることを忌避してまなざす相手をなくそうとすることは解決策としては別の抑圧を作ることでしかない。

まなざされることを避けるがゆえに不自由を選択するということはおかしなことではないし、そこから自由になるための理性は他者をコントロールすることはできない。

なのでこのような話について世の中に文句をいうのは少なくとも現時点の世の中においては馬鹿は死ねっていう呪詛を振りまいているのと大きくは変わらないよね。

価値観が過渡期を迎えている段階ではこういう対立は起こらざるを得ないし、共存共栄というのはロジック上はありえず妥協でしかないし、その妥協の産物が抑圧を生むわけなので別に誰が幸せになって誰が不幸になるかという話ですらなく価値観これからもは永遠に転換し続けるだろうし、不幸な争いも起こり続けるんだと思う。

他人をコントロールすることは出来ない、というのをもう少し大前提として考えたほうが良いし、こういう問題が解決していくにはパブリックな領域が広がっていくことも必要だよね(とは言え、インターネットという究極のパブリックスペースで繰り広げられているのはパーソナルな領域での言動による争いなんだけど)。
何かの価値観や何かの行為を撲滅しようと考えるのではなく、ゾーニングをきっちり行いつつ、パブリックな空間でそれを行うと恥ずかしい、問題である、犯罪である、と言ったような基準を明確にしていく、ということが現実的な話なんじゃないかと思う。
パブリックスペースからの排除と価値観の否定はぜんぜん違うもので、どうして後者を行えば世界が平和になると思っている人がいるのかは僕には余り理解できる話ではない。