もう人類には地球は(ネットワーク的に)狭すぎるのだとは思うんだけど、まずもってリベラルが本来実現したいことを実現するためには人類はグローバルな存在にはなってはならず、局所的なコミュニティーを作るためのフロンティアが残っていなければならない。だから、地球人類におけるリベラルというのはちょっとずつ自分のことを我慢することでイズムの最大化を図るしか無いと思うし、それが世界平和のためなのではないかとも思うんだけど、どうにもこうにも、リベラルに限らず、我慢をするということを単純に抑圧と捉えて社会の方を変えようとする向きが多くなっているというのがここ最近の世の中のように思える。抑圧から開放されたら馬鹿になっちゃいました、じゃ、人類に未来はない。
ティプトリーJr.の悲しい結末を「殺人は殺人」と評価することが何かを生み出すのか。当面の間、人類は悲劇から教訓を得続けなければならないだろうし、個人の問題を社会の問題と接続したり、切り離したり、というのは自由にやってよい。でも苦痛から目を背けたままで幸せを享受するというのは理想的なものかもしれないけど、本質的な人間の問題をも取り扱おうとしているSFにおいてはやってはいけないことなんだろうと思う。ブラッドベリが化けて出てきそうだ。
(SFではないけれども)例えばケッチャムの小説なんて小説そのものが苦痛そのものという苦痛を理由に物事を抑圧するのであれば最初に焼かれるべきものだろうけれども、我々はそこから人間の問題を発見しないといけないと思うんだよ。
過去に功績があるから、起こした問題を不問にせよ、というつもりもないし、その内容が名前を冠するにふさわしくないことによってなにか変化がある事自体は良い思う(そしてそれは過去ノーベル賞が通った道に似ている)。むしろ、問題から目を背けず、戦い続けるために、その名前を変えてしまうことが
妥当なのかどうか、ということを常に問うべきであろうし、それがSFというものの道なのではないか。
苦痛を理由にいろいろなものから目をそむけるのはSFが描いてきたディストピアそのものの一つの形であるし、だからといって無闇矢鱈と苦痛を振りまき続ける存在を放置する、というのもおかしなことだ。この問題は誰が何をどの程度我慢すれば社会としてバランスが取れているかという話であり、全てを原則論で片付ける話でもない(だから、キャンベルとティプトリーJr.で結論が違っても良い)
ただ、この問題に真面目に向き合えば向き合うほど、我慢していないのは誰なのか、ということは明らかになりそうだとは思う。