よく出来た言葉ではあるんだけど、なんでもかんでも感動ポルノってことにしてしまうと、そもそもの意味が揺らいできて、かえって批判が容易な言葉になってしまうってのが他の新しい用語と同じような道を辿りそうな気がしてならない。
感動ポルノ批判の最右翼に「だから障害者に配慮する必要なんてないんだ」みたいな言説が出てきてクローズアップされたこともあったように記憶している。そうじゃなくて、「感動に値する存在であるべき」みたいな押しつけをやめてくれろという話でしかないはずなんだよな。
こういった言葉がカジュアルに蔓延すると、当然だけど感動を誘うものは全部感動ポルノみたいな雑な話が出て来るし、批判する側も雑なところを批判して元の言葉を批判した気分になって結局ネガティブイメージしか残らない、ということはよくある。
こういうあまりに分かりやすい言葉は原義とは関係なく字面で汎化されて広まっていくからね。
ただね、それはそれとしてそもそも感動は消費するべき感情だと思うんだよな。じゃなければ、こんなに世の中に表現が溢れていない。よく、無人島に持っていく1冊みたいな話あるけど、それ本当に無人島で永遠に読んでられる?とかさ、人間は感情を作り、消費し、また作り、というサイクルを繰り返して生きている人が大半だし、世の中はそれができるように作られている部分が多々ある。だから、感情を消費することは人間において食事や睡眠と同様に大切なものであるしそのサイクルを適切に回すことは必要な人のほうが多いと思うんだよね。元々感動ポルノって言葉を僕らに提示してくれた人のスピーチが感動的である、ということをどう考えるべきか。
無駄に演出されず、それの影響によって役割を強制されず、無意味な汎化をされないという条件のもとであれば感動を与える行為というのは世の中に貢献しているんじゃないかな。別に障害者が主人公だったり重要な役割の物語が感動的であっていけないわけではないのだよ。