novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

不快さの深淵

くちゃくちゃ音を立てて食べちゃだめ、というのはよく言われる。ズルズルと汁や麺をすするのは外国人にとっては不快だ、とも言われる。でもどうやらくちゃくちゃ音を食べるのが普通、という国もあるようだ。

礼儀とかマナーみたいなのは特定の都合によって作られることが多いし、それを守ることがその社会に属することの一つの条件である、と考えると一旦出来上がってしまったマナーを「対外的な都合で」変えるのは文化に対する圧力みたいになってしまうのは当然のように思えるよね。

ここで大事なのは、結局の所、不快かどうかについてもある種文化的な背景や文脈が影響している、ということ。犬を喰う文化だって虫を喰う文化だって当たり前のように実行されている場所において不快であろうはずがないんだけど、別の価値観が持ち込まれた結果、価値観が衝突している。だから不快が嫌いじゃなくて違いってのは実は的を得た話ではあって、ただ、「ということで」ではギャップが埋まらないし本質的には何も解決していないんだよね。そこに受容がありえるのか、というところをちゃんと飲み込まないといけない。

すべての価値観を等しく尊重する、というのは無理(自分に害を為すのが明らかなものを受容することはね)としても、最大限受容できるかどうか。受容ってのは、存在を認める、ということだとしたら、0,1の話ではなくて分かれていれば良い。繰り返しになっちゃうけど、世界がこんなにも狭くなったのはウェブのせいだし、交通機関の発展や、未開地域の文明化のせいでもある。グローバル化=ユートピア、では決してないわけだし、インターネット=桃源郷でも決してないわけだ。同じ日本人の間でもこんなにも違うというのにね。

そういう幻想がまったくない元であらためて不快について考えると、「ウェブで」叫ぶことは憂さ晴らし以上の話にしかならんよね、とは思うわけ。ウェブにおける隣人が自分の意見と正反対だとして、現実の問題にどう関係あるんだ、くらいに思ってないと辛いんじゃないかと思う。そういう意味ではウェブは同じ意見の人が群れていればもしかしたら十分なのかもしれない。現実に問題に出くわしたときに、果たしてどういう行動をするのか。自分の周りの文化を変えるように努力していくのか、のほうがよっぽど重要かもしれない。

そうは言っても、ウェブで何かを言うことで、誰かに何かが伝わるかもしれない。その程度の期待でウェブと距離をおいていくことが自分の文化に存在しない価値観に対する不快感からの距離として正しいのかもしれないよ。

礼と多様性

獣に人間の皮をかぶせるために伝統的な手法として礼儀と宗教があるんだと思うんだけど、理性を他者に依存しなくてよいのであればそれは必要ない。多様性の時代になって礼を失する、というのはそういうことなのかもしれない。これも文化圏の衝突に近い話で、リベラルと保守のある種相容れないところにも思えるし、混ぜるな危険、なのか、積極的に混ぜていくべきなのか、も実はよくわからないんだけど。

礼ってのは規範であるし、人に窮屈を強いる代わりに社会の一員である資格を与える(この部分については宗教も似た機能を持っている)ものだと思う。であれば、それは窮屈の極みであるし、多様性を求めない(許さないとまでは言わないけど、軋轢のもとになる)というのが本質だろうね。道徳やらモラルやらなんやらかんやらというのは基本的にはそういうたぐいのもので、そこから逸脱することは原則許されないとなると、現代人の理性からすると打ち破るべき旧弊(という部分がある)になってしまうんだけど、単純に旧弊を打倒だけすると理性を持ち合わせないたぐいの人間は獣になってしまうわけだ。理性に「期待する」のは現状を踏まえて考えると分の悪い賭けでしかない。

だから、リベラルってのは、啓蒙主義は通り越していて現実とどう折り合いを付けるかが課題のはずなんだけど、最近は単純な旧弊打倒みたいなのも見え隠れするんだよね。これがまた話がおかしくて、それが可能になる前提である理性の存在すらそこでは確固たる地位を持っていないように見える。そうするとこれは単なるアナキズムにも感じられる。

いずれにしても、礼を失った世界というのはそういうもので、一定以上の理性をもつ人工が大多数でない限りは弱肉強食に堕ちていってしまうだろうけど、窮屈から解放されたいという一心だけでそちら側に向かってしまうのは良くないよなあ。

僕自身は(個としての)他者への関心が低すぎることに起因して多様性を持つことに対して許容度が高い(つまり鈍感ということで別に褒められたことではない)と思っているんだけど、どうしても抑制的なことを書いてしまうのはそういった意識があるからとは思っている。

人間らしくあるとはどういうことか、に向き合わないで個の解放について考えるのはまだ早いんじゃないの、とかね。

で、こんなことを書くのは別にお気楽な気分ではないんである。誰もが苦しみを背負わない社会なんてとりあえず今はないよね。

嫌いって言うとお気持ちって言われるじゃんって本気で言ってるの?

先のエントリに結構この手のコメントついてんだけどさ、これ本気で言っているんだとしたら3年ROMったほうが良いんじゃないかって思うんだよなあ。

お気持ちって、嫌いっていうことに対して言われているんじゃなくて、「私の嫌いって思いを社会的に尊重すべき(なのでその表現は滅殺しろ)」という主張に対して皮肉的に使われている言葉だよね。僕自身は強くこの文脈に乗っている場でしか使わない(そもそもほぼ使わない)つもりでいるけどさ、単に嫌いって言ったらお気持ちって言われてるんだとしたらそりゃ言っている方が聞きかじった言葉を適当に使っているだけだし、言われたって言って先のエントリみたいなのにそういう反論をしてくる方も聞きかじった言葉で適当に使っているだけだよね。

こういうのがまた新しい対立や断絶を生むわけじゃない。ある種の概念を一言に凝縮して常にそれで応答を済ますってのはコミュニケーションとしては手抜きだしさ、ちょっとちゃんとした文句がある人は昔だったらブログ書いてトラバ送ってきたもんなんだよな。そういう意味では今のウェブのコミュニケーションはツールが進歩しているにもかかわらず10年前より大幅に劣化しているよね。

最後の部分に書いたとおり、そういう「お気持ち」的なものを言われた対象の存在価値を左右するレベルの言葉にするのやめようぜ、というのが僕の考えではあるんだけど、嫌いって表明することそのものに対してNGを突きつけているわけでもないし、もうちょっと慎重でいいんじゃないのってだけですよ。カテゴリーによるゾーニングが実質機能しないウェブでわざわざ嫌いなところに乗り込んできて社会的な問題を高らかに謳うな、ということに過ぎないんですよ。最初の問題で言えば、ジャンププラスって場で発表するには相応しくないのではないか、という議論はもちろんあって良いんだよ。仮にその発端が「嫌い(あるいは気持ち悪い)」にあったとしても、そこには別の理路もあって、批判に値するから、であればね。それでも単に嫌いっていう感情を発露することで世の中が正しく(何が正しいかは簡単にはわからんけどさ)変えられるのであれば堂々と嫌いだけを根拠に運動を繰り広げれば良いんじゃないかな。なかなかそういうのはないと思うけど。

繰り返しになるけど、単に嫌いを表明すること自体は、その嫌いが自分の気持ちの範疇にとどまっていて、他人に配慮を求めない(求めたらお気持ちだよね)のでれば、それは自由だと思う。ただ、その嫌いという言葉は他人を深く傷つけることがある言葉だから、表現には気をつけたほうがみんな幸せだと思うし、場をわきまえて発言するべきだとは思う。最後に醤油の話を持ち出したのは、そういう感情の素直な発露、というのは社会を構成する個としては可能な範囲で抑制すべきことだし、そういう訓練を僕たちはしなきゃならないという意識があるから。面と向かってやったら「嫌な奴」になるような行為をウェブだからといってやたらめったらやるのはどうなのってことでもありますよ。

もっとも、僕自身そういう「嫌な奴」であることの自覚はあるけど。

配慮を求めるってのもちょっと意見が分かれそうな話ではあるね。嫌いってのは他人にとっては言わなきゃわかんないかもしれないから、「これ嫌いなんだけど、もうちょっとなんとかならんのか」というレベルの話はカジュアルにしたほうが良いとは思う。未だに30年以上前だけどゴールデンタイムにバタリアンの映画のCMやってたの恨みに思っているので。