novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

さいきん「ゆっくり解説動画」が商業化しているらしい

といっても、先日の著作権騒動の話ではないです(もしかしたら関連性があるかもしれないのでそうだとしたらかなり闇深だけど)。

ゆっくり解説動画のうち、かなりの割合が機械化(文字通りの機械ではなくて、セオリーに従って作業するだけの形)で作られており、収益化されたり、収益が思うように伸びなければ結構な高値で制作体制ごと売却されたり(買うやつおるんか?)するみたいで、個人のゆっくり動画制作者に「そのチャンネル10万くらいで売らない」みたいな誘いも流行っていて真面目にやっている人が怒っている、というのをとても良く見かけるようになった。たしかに、最近「xxの雑学」とかそういうたぐいのチャンネル乱立しているし、内容Wikipediaで3分でわかる程度の話しかなかったり、茶番が画一的だったりで低クオリティのチャンネル自体はすぐわかる(わからない人向けだろうけど)のですぐ非表示にしちゃうんだけど、まあ多いよね。

切り抜き系のチャンネルもさ、3時間の配信から、とかならわかるけど、15分くらいの動画から切り抜くってまずまず意味ないよね。なんか岡田斗司夫の切り抜きチャンネルが大量に出てきて片っ端から非表示にした。
あと、サムネで実はxxみたいなxxを本編見たらほとんどそうは言ってないみたいなやつ。あれももう大体サムネでxxってなってたら見なくていいやってわかるようになったのでまあわかりやすくてありがたいけどね。
あと、サムネがこういう4分割になってるやつ。これもだいたいこのサムネでxxとかなってたらアウトだし、この4分割の内容に沿ってない内容しかない動画が大半であるw

あ、あと、「本当の理由」とか「驚愕の真実」とか「xxであることが判明!」とかもだいたいフェイクかそれほどびっくりするような内容じゃないか何今更いってんの常識でしょみたいな内容であることがほとんどですね。

本当に面白い切り抜き(本家の許可あり)みたいなのもあるからそういうのはありがたいし見る意味もあると思うんだけどね、見極めるのも大変ではあります。

で、こういうの増えて一番迷惑なのって「動画としては静止画に毛が生えたようなもんだけどトークが面白いから収益化頑張って」みたいなチャンネルがさあ、「ほとんど同じ動画」扱いされて収益化NGになったりとかする一方でそのへんのノウハウだけはあるクソ動画が再生数稼いだするっていうことでさ、「優れたコンテンツに高い評価を与える素晴らしいアルゴリズムを作ってるんじゃないんですかねGoogleさん」っていうモヤモヤがどうしてもあるよね。クソAIより人力のほうがマシじゃん?みたいな。

本当にそのコンテンツのことが好きで、ゆっくり解説動画を作っている人って、僕らにおきかえると作品愛を語るホームページ作ってた人みたいなもんじゃない。まあその頃とは「当たったときの金になる度合い」がぜんぜん違うってのが若干引っかかるけどさ。その手の話で一番良くないのは、やっぱり動画作るのには動画を作るということそのものに割かれるリソースが大きくて、収益化しないと割に合わないみたいなハードルになっちゃうことだよね。そうするとどうしても愛だけのアマチュアは圧されて追い出されていく。これ、ゲーム攻略サイトの商業Wiki化と同じ方向性だよね。

死ぬほどではない、の先にあるもの

なんだかんだで日本が平和だったのは、命を懸けるほど追い詰められることがそれほどはないという社会であるからだろう(それが全てではないけれども、いくらかは)。
時として生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされることがないとはいえないけど、仮に死ななきゃならなかったとしても社会に復讐して生を終えよう、という人はそれほどはいないのではないか。

でも、ここままでは死ぬしかない、という状況が増えれば増えるほど、「どうせ死ぬなら」と思い詰める人の数も増えるだろうね。そういう場合にターゲットになるのかならないのかって、どこで決まるのだろうか。やっぱり徳なのかな。今からでも遅くないから企業経営者は徳を積んだほうが良いよね。

元首相を襲撃することに意味を持たせたくない人がたくさんいるようだが…

起きちまったことは厳然と受け止めるべきだし、僕たちが言うべきことはその手段は正しく「なかった」ということだけなんだよ。つまり、起きた事自体は認めざるをえないし、その事によってクローズアップされた問題についてはなかったことにはできない。人を殺すという行為によって引き起こされた、つまり、殺すことに効果があった、というのは純然たる事実であり、逆に言うと、客観的に言って問題のあることについてそこまでしないと問題として動かなかった、という事実が暗殺事件を起こした、ということを反省することによってのみ、その手段は正しく「なかった」ことを証明することができる。たしかに今回のトリガーは暗殺事件だったかもしれないけど、正しい民主主義的な手続きを踏んでも同じように解決として動く余地はあった、ということが証明されれば、それで初めてあの行為は全面的に否定できる。

もっとも、どうやらそうではなさそうであり、数十年に一度起きる衝撃事件(これは人が起こすものに限らない)によって世の中が是正される事例でしかなさそうだ。しかし本件でいちばん大事なのは「本当はそうじゃない。今回は結果的にそうなってしまったが、人を殺さないと解決できないなんてことはありえないんだ」ということをきちんと証明することだよね。そこまで行きつければ再びその手段は正しく「なかった」ということができるようになる。やっちまったことを手段が正しくないからそこで明るみになった問題ごと葬る、という考え方こそが民主主義の敵だよ。
だから、「容疑者を英雄視してはいけない」→「疑惑の追及を厳しくすべきではない」というのは全く正しくない。むしろ、自浄作用があることを徹底的に証明することが正しいよね。というか、それが機能してないから厳しく追求されるし、それを不誠実にかわしていると次の弾飛んでくるわけじゃん。いやマジでそういうフェーズだと思いますよ日本の政治は。

行為によってどの程度の効果があるかなんて相対的な話であって、「人を殺すほどのことではない」と判断されるからこそそう簡単に政治家が殺されたりしないわけでしょ。デモは一笑に付され、行政も司法も助けてくれない、みたいになったときに次に選択されるのが暴力であってもなんも不思議はないわけじゃない。日本(に限らずいわゆる先進国)は暴力は割に合わないよ、というのを制度としても思想としても整備することでこういう事件を減らそうとしてきたわけだし、そういうのをショートカットしてテロを起こすような集団は蔑まれる(=支持されない)わけだし、支持されないからこそテロするってのはあるかもしれないけどね。

起きてしまったことには取り返しがつかない程度には意味がある。英雄視なんて全くもって間違っていると思うけど、目をつむることはもっと間違っている。