novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

M-1 2023感想

お笑いは普段そんなに見ませんので、お祭り観戦者の感想というだけです。

いつも見ていて思うんだけど、「ああ、すべったなあ」って組でもくくくっってなるポイントはいくつかあって、お笑いって大変だなあ、そこから爆笑を取れることがあるからここに来ているんだよなあって思いました。ウケなかった2組、決して全部がつまらなかったわけではないし、会場の空気的に厳しかったって部分もあるからやっぱりM-1ってくじ運あるよね。

という点では、最後に出てきて決定戦で1番目になった、というのは周りの選択ミスにも助けられたっていうか、え、こいつら同じネタで来たぞってのは当然ハードルは上がるけど勢いをそのまま使えるわけで、この決勝の場でものすごい選択をしたな、という印象でした。そのウエストランド、一回戦のネタみたら二人のポジション逆のネタやってるのねwテイスト完全に一緒なのに違う風に見えて面白い。

さて、DISり芸だよねってのはM-1の中でも色んな人が触れていたけど、上げたり落としたりするのが笑いの本質だとすると、ある意味これが王道(の一つ)なんだよなあとは思うんだよね。ぺこぱだって「優しいツッコミ」とか言われてたけど、あれが面白いってことは「通常のツッコミ」に対する感受性があるってことだと思うんだよなあ。

ネタが意味不明、とかいう人でなければ、ウエストランドのネタってのは笑いのツボがわからないものではないと思うけど、一方であれが笑えない、という人がいるのはわかるんだよね。下手したら冷や汗が出てくる人がいるかもしれない。そういう温度の違ってのはおそらく笑いの感受性の差で起きるものではなくて、日頃考えていることの違いによって起きるんだと思う。だから、笑えないネタが「不謹慎」とか「非倫理的」とかそういうものって考えるとあんまり良い結果にはならないと思う。おそらくだけど、「すべてのお笑いが一切合切笑えないし、社会の敵であるとすら感じる」という極端な人(実在するかはしらない)以外の人は、自分が面白いと思ったネタを冷めて見ている人が絶対にいる、と思ったほうが良い。だから「面白くなかった」って感想は良いけど、それ以上踏み込んではいけない。不毛だから。

とはいえ、あれくらい強度が強めのDISり芸ってこの何でもかんでも切り出して議論されてしまう時代において、よくやったなあ、と思わなくもない。演芸場でやるのではないからね。地上波に乗るというのはそういうことだよね。でもこの見ていて内心を暴かれるような、代弁されているような気分と、それを言ってはいけないこと(でも言っちゃう)みたいな感じで押さえつけられているところから開放される感じと、でもまあ言ってもこれ嫉妬だよね的な恥ずかしさとをごちゃまぜにした結果、笑えてしまう、というネタはDISりの強度に比例して面白かったわけで、良かった。良かったけどこれはある意味チートに近い部分もあるから、このネタをずっと求められると厳しいところはあるかもしれないな、とは思う。

しかし、他の組も全部楽しめたと思います。ぺったんぺったんは正直良くわからなかったけど、あれがあの場に存在するということ自体がすごいことだと思う。

コストの低い批判はリスクは高いよね

どうもこの辺の話はいい落とし所がないなあと思っているんですが、僕としても昔、内容的にちゃんとできてたかはさておき、丁寧にブログでやり取りしていたときに比べるとまあ雑になったなあとは思っているんですが、そんなので済まされるのは社会的に影響力がない人としての特権みたいなものです。それこそ10年前は今よりももっとバズりやすい環境下で色々書いていたんで、いつか言いたいことを言わないようになるんだろうかと思ったこともあるんですけど、幸い?なことに、ブログというもののパワーが落ちてSNSに移行したことによりせいぜいはてブで言いたい放題いうくらいの立場に落ち着いたかな、と思ってはいます。泡沫って素晴らしいですね。

なんにせよ、SNSを言論プラットフォーム的な扱いで利用するのは色んな面で間違っていると思うので、みんなよーやるよなあとは思うんです(最近実験的に連投とかしたりはしてみてるけど、たしかにブログで書くよりめんどくさくない、という面はあります。全然推敲できんが)。

ともあれ、批判というのは真面目にやるものであって、感情が先走っちゃったときは後からちゃんと謝ることにしてる。ブログでやるってのは長文書いている間に気持ちが落ち着く、という効果もある(し、落ち着きすぎてあれこれ書かなくてもいいやつじゃんってなって闇に葬ることすらあるw)。

炎上したりとかは運も結構あったりするけど、基本的にはやはり姿勢の問題はあって、大抵の場合は雑であることがトリガーになる。雑な批判ってする方は雑で、されるほうは嫌(反論にはコストがどうしてもかかるから)なんだけど、まあ批判された側が雑な批判に真面目に(コストをかけて)応対し始めると大変面倒なことになりますよね。


僕はいま界隈で起きているのはそういうことなんじゃないかとずっと思っていて、ようは、余計なことに首突っ込むからいけないんじゃんって話で。

人を呪わば穴二つってのはまさにこのことで、せめて首突っ込むならその話題そのものできっちりやりとりしてほしいけどそれやらないで無視したり人を馬鹿にしたりするからじゃあお前の活動自体を批判してやるぜってなるんだよ。それお前が他人にやっていることの裏返しだからね、という話だし、自分がやっていることは雑だけど返ってくるときはたいてい雑ではない、ということなんだよなあ。だからあまり同情できない。

あいつを黙らせろ

こんなところまで駄文を見に来てくれているありがたい皆様方には言うまでもないことだと思いますが、殺害予告はいけませんね。
もっとも、殺害予告をするような人は殺害予告がダメと思っていないか、思っていてもバレなければいいやって思っているかでしょうし、そういう意味ではいくらみんながダメって言ってもそういう人がいなくならない限りはなくなることなんてないでしょう。

でも殺害予告ってなんでやっちゃうんでしょうかね。色々考えてみているんですけど、すっごい単純に言うとお手軽だからなんだろうな。それにしては危険な手段だと思いますが、逆に他の手段がしんどいからだ、とも言えそうです。聞く耳持ってくれなそうで、かつ、その言葉が社会的な影響力を少なからず持つような相手に文句を言うのって、反論コスト高すぎますよね。それが本当に絶対的な正しさをもっているんならともかく、利害が対立しているだけであればなおさらだんまりしたくないけど何かをいうのもしんどいみたいなね。

表現の自由(戦士)にしてもフェミニストにしても、元々社会の規範そのものを塗りつぶそうなんて思っていないはずで、本来であれば対立したり塗り方の違う思想同士が社会でどう折り合いをつけていき、どう社会が変わっていくべきか、という話であると僕なんかは思うわけですが、どうも一度ある程度結果を出すとそれが正義で社会全体が必ず受け入れなければならない価値観である、という態度で迫ってくる人もそれなりにいるんですよね。いやいや、そこまでの話って先人が一生懸命ロジックを作って他者に納得してもらうための説明を繰り返してようやく成り立っている場所なんですよ。それを巨人の肩かのように乗り回してる人いますけど、そんなに強固じゃないでしょそれ。

そういう先人の努力ぶち壊しムーブメントが最近の流行りですよねえ。なんか「お気持ち」なんてのもそういうムーブメントに対して正面からぶつからないための交わし方みたいな要素があるんじゃないかと最近思いますね。先人の議論の価値を認めれば認めるほど、今の雑な適用についてたとえ自分の立場が反対方面だったとしてももったいないって思っちゃうわけです。

絶対正義を盾に迫ってくるように見える人がいた時、どうしますかって話になると反論の手段やコストを持ち得ない人が短絡的な動きに出てしまうのはわからんでもないし、雑な批判はそれを誘発するような行動って要素はあると思うんだよね。というか、敵対的態度に見えるってのが一番良くないんだろうな。世の中をよくしよう、と思ったときに自分の意に沿わないものをとにかく消し去ろう、というやり方は急進的な動きに見えるし、急進的な動きには急進的な対抗策が取られる、というのってまあまあ原理原則に近い話なんじゃないかと思うんだけど、みんなTwitterみたいなところになるとなんでそういうの気にしなくなっちゃうんでしょうかね。