novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

転売屋を肯定するかどうかである程度人間性が測れるように思える今日このごろ

市場の取引が自然のままで常に公正でいられるか、というのは重要な課題だとは思う。商品の値段が需給関係で決定されるという素朴な経済学だけを全面に押し出して市場の機能を全肯定するのってどう考えても思慮不足であり、人間の悪意に対しても肯定的である(勝ったもんが勝ちみたいな)という価値観で生きているとしか思えないんだけどね。
市場に規制があることの負の側面だけ捉えて批判することも多いだろうけど、何分商取引というのは古来から不正との戦いであって、焼畑農業だけをやっていたら市場には未来がないし、健全に育てることで全体として最大の利益を生むという社会の考え方がある中でそれに横槍を入れる行為を肯定的に捉えるというのはそういうことだよね。

端的に言うと、テクノロジーの進化によって空いた穴を突く行為がどの程度まで許容できるか、という問題なんだよね。市場の健全性にとってどちらに作用するかは物によって違うので正直わからないところがあるけれども、一つの評価としてそれで市場が育つか、という観点は重要だと思う。ただ、それによって市場が衰退するだろう、ということ自体は予測でしかなくて、現実とすり合わせていかなければならない部分もあるし、商取引を公正に保つ努力というのは必ずしも市場にだけ課せられた義務ではなく、そこに参加するものが作り上げていく必要があるものなんだよね。
だから、そういったコンセンサスを崩すとみなされる勢力は参加者から排除される。となると、雑誌とかは立ち行かなくなるわけだから、ああいった発言が重たい処分になるのは市場(間接的とは言え、大きく依存している)からの排除が雑誌の存亡に関わるものと評価されたということだろう。

外野がとやかく言えることはあんまりなさそうだし、コモディティじゃない商品における特殊性について一般論にしてはいけないとは思う。逆に一般論から転売屋支持するのってどんだけ視野狭いんだろうって思うけどねえ。

「お、ドラクエ流れとるな」くらいの話にもならないのが口惜しい

ってのが子供の頃からビデオゲームの文化に触れている僕らの世代の感想なんじゃないかと思うんだけど、どうだろうか。

開会式の件ね。

勝手に代弁するなと言われるかもしれんけど、僕らの世代にとっては「ゲーム音楽が使われる」ことなんてそれほど重要な(エポックメイキングな)ことではないと思うんだよ。だって、テレビ番組の中にも溢れてるじゃん。長年ね。それを言ったらジャズとか吹奏楽とか、あまりメインストリームとも言い難い音楽が番組で使われてニヤッとする、と同レベルでゲーム音楽は今まで使われてきたと思うんだよなあ。
だから、「オリンピックもようやく普通になったか」としか思わないし、名誉であるとも不名誉であるとも思わない。使われ方が雑?これゲーム音楽じゃない他の音楽で構成されててもそんな感じになるよね。とはいえ僕が少しは感慨深く感じたのは、ようやく「ありふれたもの(そこに普通に存在してても良いもの)として認められたのか」という思いが多少はあったからしれない。これはど真ん中のアニソンが紅白に出てきたか、位の話だ。別に国としての云々ではない。

ところが、世間の反応ときたらどうだ。まあ、演出をした側はそういう反応のほうが期待通りなのかもしれないけど、評価する側もしない側も、過剰な反応が散見される(一方で、気にしてない意見も多いようにみえるけどね)。ゲーム音楽流したくらいでオリンピック肯定になってネット民ちょろいみたいな揶揄をしているのは意味わからん。重要じゃないって書いたけど、少なくともそう思われる程度には重要だったかもしれないね。でもやっぱり取り立てて騒ぐことでもないし、開会式の演出を見た(評価した)くらいでこのコロナ禍でのオリンピックそのものを肯定的に見直す?そんなわけはない。まあはじまっちゃった以上選手には頑張れと言いたいけど、それと開催を強行した事自体を許すかどうかは別問題だけどな。

僕としてはそれよりも、開会式の中継を見ててNHKがゆく年くる年ばりのナレーションを当ててたことが気になってしょうがなかった。xxは何を表現しているそうです、とか、そういうのって後で振り返るものであって、その場で解説されると興ざめだよね。ゆく年くる年はあとで振り返るものではないので良いんだけど。

「ルックバック」をめぐる反応について

雑感だけど。

作品に対する熱狂みたいなものは、当然の話としてネガポジ両方の反応が強く出てくる契機になりうるけど、表現に対する反応ってのはそういうものだよね、というのが第一印象。
とはいえ、「騒ぎすぎじゃね?」という気持ちが伴っている。

正直、実際の事件であるとか、人の問題であるとかそういう話ってどうでもよい。というか、これを「軽視してはいけない」という意見はもっともなんだけど、必ず考えなければならない、となると作品にとっては不幸だと思う。今回もこんな熱狂がなければ、そんなところが大きな問題になるとは思えないんだよね。

熱狂というのはすなわち「社会的影響」につながる反応であり、それこそ社会運動の起点にもなりうる話ではあるんだけど、そもそもこの話の熱狂の起点は何なんだろうか。社会問題についての何かを提起したかったのだろうか。僕はそうは思ってなくて、極めて個人的な「感情」の問題を綴ったもの(それのトリガーが社会にとって大きな問題だったとしてもよ)であるとしか思っていない。もちろん、表現というものはそのあと当然のように独り歩きして社会に影響を与えていく。だから、作者の天才性とかをクローズアップするというのはこの作品における熱狂についてはどうも的外れに感じるんだよね。「作者は天才だ!」が熱狂の中心になっている人は果たして作品から「作者の天才性」以外の何かを感じたのかって思ってしまう。少なくとも素直にあの作品を見たときに「作者は天才だ」なんて感想に終始することは絶対ないと思う。だから、「作者が天才」「チェンソーマンの人」みたいなところが入口になって熱狂している人はある意味この作品の受容としては不幸なプロセスをたどってるのでは?とすら思う。
(そもそも、僕自身はこの作品が誰が書いたかなど最初はまったくもって気にしていなかった。作者に対する熱心な読者ではないからかもしれない)

作品から受け取れることを突き詰めて考えたい人は考えれば良い。でも、作品を読んだときに、その背景について「必ず考えなければならない」わけではないし、それを強制すること自体が世界を狭める行為だと思うんだよな。