なんというかですね、日頃「フクシマ」と言う異様なレッテルが抱えている、もう根源的といってもいい気持ちの対立について批判的な人々が、それを茶化す手段として「フクシマ人」と言うワードを設定したことについてはなんとも言えない感情を抱えたわけです。
いつだか、「放射脳」は良くないという話になって、割と使ってしまう僕としては反省しきりなんだけど、一方で、人類は全て分かり合えるという幻想を抱えているわけでもなく、自らの位置もまたイデオロギーであると言うことに自覚的である以上は、「敵」を叩いたり落としたりする行為そのものはすべきではあり、重要なのはそれが社会(少なくとも日本は法治国家である)のルールを逸脱していないか、目的に沿った正しい手段を選択しているか、というところに意識がいっているかどうかではあると思う。
僕たちは一見手段と目的を間違えたかのような行動をする敵をあざ笑うことはよくあるけれど、案外それは的外れで、その手段で達成することが出来る事こそが目的だったりすることもあるのだと思うのだよね。そこにおいては、あざ笑われることも計算に入っているかもしれない。
「フクシマ人」を一見した時に思ったのは、「また無根拠差別野郎の暴走か」だった。フクシマと言うワードが持つ方向性はそちらを向いている。でもよく見ているとそれは「フクシマ」と言ってる人間をあざ笑うネタだった。いよいよ、「フクシマ」と言っている人の真の目的であると勝手に想像している、日本人の分断工作がここに成功しつつあるのか、と一瞬震えた。
僕が放射脳という言葉がまだマシ(もう使わないと思うけど)と思っているのは、少なくともそこで笑われているのは考え方だけであることが明らかだろうことであり、フクシマはそうではなく、あからさまに福島と原発を被XX(言う人によって何が入るか違うだろう)地域として規定し、そこにある、いる、ヒトモノカネに言われなきマイナスイメージを与えることを意図している言葉だと僕は解釈している。
であるならば、そんな言葉に乗っかって揶揄を行うなんて行為は、福島に関係がある人たちを巻き込まずにはいられないものであり、正しく利敵行為である。
これは立場にもよる話だとは思うけど、より公的な、より地位のある人ほど、正攻法をとって見せるのが社会の規範を保つのに役立つことだと思う。逸脱者が常に間違っているわけではないけれども、誰が逸脱者なのかわからない社会というのは本質的に危険であるとも思うのですね。
無論、それは正攻法しか使うなということではなく、何をどう見せて何をどう見せないかの問題にすぎないけれども。