アメリカなんかもそうだけど、極々たまに、非常に低い確率でだけどとてつもない事件が起きるのが社会というものであって。日本は幸いな事に他国と戦ったことによってテロ喰らったり空爆されたりってのはまあ最近は起きてない代わりに未曾有の大地震が起きたりもするわけですが。
だから何ってわけじゃないけど、一人一人に起きた不幸を一人一人について深く考えてしまうと社会が持たないような感触はあって、だから極力冷えた目線で評価しないと復讐の連鎖は終わらない的な何かだとは思うんだけど、これを突き詰めていくと結局のところ「宗教が違う人とは分かり合えない」という結論に達しそうで怖い。
今起きている問題が宗教を起因としたものではないけど今起きていることを解決するポイントが宗教に有るとしたらそれはもう宗教の問題だし、そこでいう宗教というのはもっと大雑把に言うと文化の問題でもあって、結局のところなんで日本人はイルカやクジラを殺すのかという問題でもある。
みんななかよくするためにはみんななかよくするしかなくてまあそれは大体においては不可能であるという話だけど、その点においては日本の憲法なんてのは形骸化している部分はあるにせよまずまず何かを宣言しているようにも見えるし、それを解釈がどうとか言っているのはやっぱりある種の参入表明でもあって、表明するってことは明確に敵を作るということでもあるし、このような事件が渋谷のど真ん中で起きたとしてももはや驚くべきことではないだろうし、そういうことを織り込んで国際社会に臨んでいるのだということだとは思う。
それが嫌だって言って通用するのかどうかがそもそも問題で、まあ通用する世の中でありたいと思うんだけど、実際問題渋谷のど真ん中でテロが起きた時に日本の世論がどういう方向に倒れてしまうのかは常に考えておかないといけないのだろうね。そのいう点では起こさないためにどうしたら良いかというのを考えるのはもちろん大事なんだけど、「こうすれば絶対起きない」というのは相手のいることである以上不可能なことを考えている話にはなる(もちろん可能性を最小限にするという考え方は間違っていないけど)。で、そういうことだけを考えていると実際にことが起きた時には「ほら見ろやっぱり」的な話で一気に逆方向に傾いちゃうよね世論ってと思うとやっぱりこの手の話は思考実験的なことをきっちりやっておかないと心構えができないんだろうけど世にそれをやる人がどの程度いるかというと絶望的な気がしなくもない。