抽象的な話をするけど、元々、ムラ社会であるとか、ホニャララ制であるとか、ワークライフバランスであるとかまあそういう話で世の中の閉鎖的で閉塞的な物事を現代基準で変えていこうぜ、というリベラル的(的だよね?)な社会の方向性について、別の規範による制御を迫るというのは逆行しているので、そういったことを目論んでいる人はリベラルではない、というのが僕の雑な認識。まあちょっと雑だよねとは思っているけど。
結構この話が難しくなるのはそういうところで、例えば性的なトピックについて開放に伴って攻撃に転化するところもままあると思う(特に一時期の秋葉原は18禁の諸々に寛容な人間ですらちょっと歩き辛いなとは思ったわけで)。だから、5W1Hというわけではないけれど、何をどこまでという線を引くのは大事ってのはあるんだよね。ただ、その線の引き方ってのが誰かの規範的意識に基づくというのはよろしくない。誰かが傷ついたからという基準で物事を決めるのもよろしくない。何かを抑止すると必ずそれで抑圧される人間は出てくるわけだし、どこまでを良しとするかは多角的な面での合意に基づいて行われるべき。
もちろん、そんな風に何事かを決めるのは容易なことではないよね。
マンガ・アニメが積み上げてきたデフォルメ表現がある程度市民権を得てきたのはなぜかとか、性的な要素を含む表現(映画とか写真とか)が戦って
来たものはなんだったのかとかは単一の出来事を例に語るべきではないし、何が恥ずかしくて何が恥ずかしくなくて、何が抑圧で何が開放なのか、というのは人によって大きく基準が異なる話なので混ぜるべきではないよね。
こういうのは常に細かく調整しながら基準を決めていくしかないと思うんだけど、どうしても誰かの主観的な正義が調整を拒否するということが起こりがちで、調整を拒否する人がいると全員「じゃあはんたーい」って言わざるを得ない、みたいな地獄であって、これほどまでネットでの議論に向かない話はないんだと思う。
そもそも、これを後退と捉える僕のような人と、前進と捉える人と、どちらも存在するだろうし、であるならば永久的に話は平行線になるので、なんとしてでも話を進めたい人が規範みたいなものを持ち出さざるを得ない状況にどうしてもなっちゃうんだよね。でもこの話の正解は現状の基準に照らして問題ない(ここでも意見は分かれそうだけど、これは純粋に法的な問題&提供する主体が自分たちの名誉を毀損しないかどうかの判断程度で良いと思う)のであれば、そういう議論が合ったね、というところで終わらせちゃって良くて、そういう事例を積んでいくことでコンセンサスが次第に出来上がっていくというのが良いと思っている。
つまり、単発の事例で結論を出そうとしている人はみんな乱暴だと思うんだよ。