差別心がないものなどいない(断言
というかね、差別心を持つこと自体が「恥ずかしい」ことなのかどうか。僕はそうは思ってない。人間の判断のありとあらゆるところに差別心は見え隠れする。その点において僕は性悪説であり、それを抑えるのが思想であり、宗教であり、理性だと思っている。だから、差別を社会に表出させることは良くないことであるという社会思想で現代社会は成り立つべきだと思うし、一方である差別を容認することで社会全体を機能させようとする社会(とそれを支える宗教)があることも否定はできない。結局のところこれは思想の領域の問題であり、今差別を社会に表出させることが良くないと思っている社会はそうではない社会だった自らを時間をかけて乗り越えてきたんだから、一足飛びにそれを他に植え付けることはできない。
僕らの社会にとって、差別が良くない、というのはあくまで「それを表出、表明してはならない」という点に尽きると思っている。もちろん、これは具体的な対象者に向けての話であり、また、広く社会に訴えかける目的で、ということに過ぎない。差別心があることを認め、それをどう抑えていくか、あるいは解消していくか、について議論したり相談したりするのに差別心の表出は欠かせないものだ。「差別は社会的によくないこと」であり、「差別心を持つ自分は悪である」と規定してはならないと思う。なぜなら、差別心のない完璧な存在でいるためには自分の中の潜在的な差別心を抹殺しなければならないが、ほとんどの人間にはそれが不可能であり、その代償行為として「悪」を規定した正義に依拠するようになるからだ。悪とはなにか。無条件に差別が許される対象だ。
差別と戦う人たちの一部に違和感がある時の殆どは、差別と戦うことが悪を撲滅することである、という意識を感じさせるときだ。