奥ゆかしく上品である日本人幻想の中ではポリコレなどというものは評価に値する考え方ではない。なぜなら奥ゆかしく上品である以上ポリティカルに問題な発言をするわけはないからだ。ぶぶ漬け、いかが?
表現においてポリティカル・コレクトネスをすすめる事自体に何か問題があるかと言う点においては僕は一点のみどうしてもいいたい。「で、解決するものは何なの?」
何も解決しない、というわけではない。だけど、なんでも解決する、というわけでもない。解決することのために解決しないこと全てを犠牲にできるのだろうか。そのことに目をつむったことによる一つの帰結がアメリカ大統領選挙だ(ただし、これは結果の表出にすぎない)。
僕が幻想する自由で平等な社会においては、現在における差別用語は差別用語としての機能を持たない。じゃあ実際の社会とその自由で平等な社会の差異は何なのか。それは実際の社会は自由で平等ではないというところだ。だから、自由で平等である社会では必要のない抑圧に存在意義がある。
事の大小を無視して言えば、ポリティカル・・コレクトネスは表現に対する抑圧だし、隠蔽だ。言葉は何かを表出するために存在する。それが単に内心だけに留め置かれているのであればそこにはコミュニケーションのロスが発生する。発言できない言葉は澱のように溜まっていき、内心を淀ますかもしれない。
本当は、僕達が発するべき言葉は内心を偽ったものであってはならない。差別をしてはいけないということが単に「社会の要請」だからであるとみんなが考えているとしたらそれほど悲しいことはないけれども、もはや何故差別をしていけないのかを問うことすら社会的に不適格と認められるのだとしたら、内心の差別心を解消することが出来ないまま、行動だけが抑制されていく。淀んだ内心はきっと解放を望むだろう。
何度か言っていることだけど、インターネットという存在は人々に枷をはめ始めている。そもそも表現の問題はある種TPOの問題に過ぎなかったはずなのに、全ての表現は常に全世界の視線にさらされていることによる視線恐怖症こそが21世紀初頭における一番の病理なのかもしれない。