novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

ネットの自由って、自由なの?

なんかこう、はてな老人会的な行為だと思いつつ、ついつい言及してしまう。

fujipon.hatenablog.com

後半の方に、ネットの自由とはなにか、ということを書かれています。

僕は「ネットの自由」って、マルクス主義みたいなもので、理念は立派だけれど、いまここに存在している人類には荷が重い理想主義なのではないか、と最近思うようになりました。
「ネットの自由」を唱える人の多くは、「自分が他者をサンドバッグにする権利」を守りたいだけで、自分がサンドバッグになるリスクを想像してはいない。

これも一つの定義だよな、と思いつつ、10年くらいはネットの自由なんて幻想だ、みたいなことを書いている自分自身としてはもう少し違うことも言っておきたいわけですね。

というのも、元々ネット(インターネットに限らず)って、自由を志向したツールではなかったんですよね。ただ、たまたま、世界中で共有できる環境になって、たまたま、言論弾圧がおよび「にくく」て、たまたま、社会的な不自由から脱却するための一つの手段として使われた、という背景から、なんだか自由の守護者みたいに見えちゃているだけであってね。GAFAを始めとするネット巨大企業が「既存の利得を過去のものにした」というのもそういう勘違いを生みやすいですよね。もちろん、昔のGoogleはEvilな活動はするなと言う社是がありました(捨てちゃったことが現実)し、Appleが政府の要望を何度も跳ね除けている(のは正義のためというよりは顧客保護という名目の囲い込みでしかないと思いますが)ようなアクションがその印象を強固にしています。

でも、現実って、多様性一つとってもローカルの風習とか文化(もちろん、進歩的な意識の中においては後進的すぎる文化はありますが)を可視化して否定するツールになっていませんか?世界に一つだけの花どころか人間って4象限くらいに類型化されるくらいしかなくて最終的にはSF的な物言いをすれば集合意識体かされた人類の大怪獣最終決戦に向かっているように思えませんか?ネットって統合と分断を助長するツールでしかないんじゃないんですか?自由を担保するための機能なんて元からなかったのでは?

ここ最近起きている事件ってそういうことだと思うし、そういう点ではネット時代に生きている僕たちはもっとローカルを大事にすべきなんじゃないかとすら思ってしまいます。ネットの互助会は現実においては何も助けてくれない。逆に言うと、ローカルコミュニティーに期待できない人にとってこそ、ネットに自由がある、ということに他ならないんですよね。ただし、その自由は紐付きで、ローカルより過激で先鋭的な思想にコミットせざるを得ない、という状況に追い込まれる(そして、やっぱりネットは現実を助けてくれない)、というオチが待っているようにも思えてしまいます。助けを求めるべきはネットじゃなくて、現実からの物理的脱出だったりしますよね(その助けにはなるかもしれない)。

この仕組みを悪用しているのが「オンラインサロン」であろうことは容易に想像可能かと思います。あれは救済を目的にしてないんだよねえ。

だから、ネットの自由なんてものは「他者をサンドバックにする権利」とほぼ同義と考えたってそれほどおかしいものではないし、それはネットの自由が変容したんではなくて、より鮮明に可視化されてきたってだけなんですよね。