とりとめもない話ですが…
ルッキズム云々ってのもあるけど、そもそも生きていくことにとって、どのように「気持ちに折り合いをつけるか」というのがは重要なんですよね。非常にでかくて曖昧な話ではあるけど。
雑なたとえだけど「あの人絶対カツラだよね」というものについて、どう向き合うかって話なわけですよ。直接指摘するのタブーだよねこれ、ってのが、「自然のままでいいじゃん」ってなって誰も気にしなくなるって思う?違うよね。本人が気にするんだよ。これをイジるな、とか、ルッキズム云々、っていう風に片付けるというのは、全く人の気持ちに向き合ってないようにも思えてしまう。逆に言うと、「新しい正しさを押し付けている」だけにも思えるんだよね。タブーをなくす、というのはタブーをタブーとすることを制限する、ということに他ならない。
いや、それいいことじゃん、って言われるかもしれないけど、それはそうじゃなくて、ある種の生きづらさを強制して、その枠から外れたら射殺する(たとえですよ)、という社会の姿にどうしても見えてしまう。タブーを作らない、というのは結構矛盾していて、タブーを作らないこと自体がタブーだよね。構造上タブーを作らないというのは無理な話なんですよね。だから、タブーを作らないという極大のタブーに支配された社会ということになるよね。人間の精神はそこに耐えられるように出来ているとは僕は思っていない。
正直なところ、「多様性」という概念についても僕自身は相当懐疑的ではある。みんなが求めている多様性ってのは「正しい(謎)多様性」だよね。そんなものは存在しない。多様性を求めている人が自分たちが正しいと思うこと以外の多様さについてどれだけ承認できるんでしょうかね。そういう、ありをしない前提をベースとして正しさを模索したって答えが出るわけないし、答えが出るわけのないものを曖昧なままで推進することがどれほど罪深いか。
イジリにしたって、イジらないことによるイジリが成立する土壌になってくるんだよね。それこそ、カツラのネタをお笑いでやったとして、カツラをしている当事者がみんな怒り出すかというとそんなことはなくて、それが他人事である限りは笑えたりするだろうし、その方が精神的には相当楽だと思うよ(お笑いがエンタメとして成立するのはそういう側面があると思う)。
結果として、ある種の「正しさ」に乗っからない人は「乗らないお前が悪い」という世界に近づいていると思うんだわ。なんでみんなそんなに正しくありたいんだろうね。僕はアウトローであるとは思っていないけど、正しさを大事に生きてきたわけでもない。科学が好きなのは正しさの質がここで述べている話とは全く違うからだよ。価値観や、大事にしていることの違いについて、ロジカルに説明できるもの以外についてを論争すること自体あまり好きではない(が、何が正しいか、じゃない話であれば議論はしますけど)。だから、逆に正しさをきっちり認めさせたい人はロジカルに話をしてほしいんだよね。これは、哲学とはなんぞやという話でもあるし、哲学ってのは雰囲気ではなくロジックの要素強いからね。