わりと一つのところにどっぷりいるほうではあるんですけど。
いやね、基本非コミュ(コミュ障とはやっぱりニュアンス違う気がするよね)だと思っていたけど単に人見知りなだけであるということを過去の記憶をたどると思う。ただ、めんどくさがりというのがあって人づきあいが普段の行動範囲中心になるってことになるんだろうな。
コミュ遍歴を少し辿ってみる。
中学時代:仲のいい友達と部活のみ(ここが一番非コミュ時代かも)
高校時代:部活の友達中心。しかしこそっとパソ通仲間がいた(依然として行動範囲狭い)
大学時代:サークルがディープだったのでサークル中心だが麻雀仲間とゲーセン仲間(某音ゲー仲間)と緩く繋がってた。入学当初突入した市民ブラスバンドは満喫した後フェードアウト(人間関係は全く切れてるわけではないけど
社会人初期:会社ではあまり…元のサークル仲間、高校のOB仲間、ウェブで知り合ったアングラ仲間。地元の麻雀仲間(小中の同級生)
社会人2~5年目:mixiで知り合いとのつながりが増えて面倒。ウェブ仲間の匿名コミュ気楽。ゴルフ始めて会社関係のゴルフ仲間&飲み仲間が増える。
ブログ始める:大学つながりでビッグバンドも始める。音楽仲間は共通言語あって気楽。面倒はたくさんあるけどまあ楽しいしいいか
某ブラゲー始める:いろいろ楽しかったんでオフ会とか顔を出してみる。面白い。でもいろいろあって疎遠に(しかしいまだにskype窓が常駐してる)。facebookがめんどい
ブログ関連のオフ会とか出ちゃう:匿名コミュ気楽。facebookめんどい。ゴルフ頻度とか上がる。
僕は結構コミュニケーション不精な人なので、手広くやってもフェイドアウト結構してるんだよなー。リアルでのめんどい(いいこともあるしわるいこともある)関係は結構充足していて、休日は早く起きないと時間がもったいないと思っちゃう程度にはいろいろやっている。承認欲求みたいな部分でいうと平日も休日もそれなりに満たされているからブログではそんなに頑張らないのかもしれないですね。
現代ポートフォリオ理論での、分散投資でリスクを減らそうというののリターンをアイデンティティに置き換えたようなもの。人間関係を色んな所で確立しておくと、どれか一つのコミュニティでのモヤモヤもあんまり気にならなくなって人生気楽になりますわよね、奥様という話です。
あるコミュニティに依存しちゃうのはリスクが大きいんじゃない?という話 - 斗比主閲子の姑日記
ある特定のコミュニティでの自分の存在を特に高めたいというのは、選択と集中という観点でありでしょうけど、突発的なアクシデントには弱いですよね。ネットの場合だと分かりやすいのがアカウントを削除されちゃうこととか(運営会社に命握られるみたいな)、実生活だと会社をクビになるとか。
まあね、そういうリアル充足しているコミュニティーにおいて存在感を失うということがどういうことなのかは数々の事例を目の当たりにしていて、自分もいつかそうなるんじゃないかと思うことはあるんですよね。だからと言って、僕のこれらのコミュ遍歴がポートフォリオになっているかというとそういうわけでもないんだと思うんですよね。
震災の年、いろいろ気力がなくて音楽活動が停滞したりしたけど、当時の無気力感というのは今思うとわりと半端なかった気がするんですよね。仕事でごまかしてた。
僕にとってブログとそのコミュニティーってのは人生とは違ったところにおいてある交換可能な、しかし息抜きとしては重要な存在なんだろうなって思うんです。まあお気楽だよね。匿名でいる理由の一つはそれだし、そこにリアルの関係が発生した時には匿名でなくてもいいなとも思っているんですよね(現にあった人のそれなりの数に普通の会社員としての名刺を渡しているわけですし)。
結局コミュニティーで主体的に生きてくためにはある種のマメさが必要で、それがない人はある人に寄りかかって生きていくのが楽だったりしますよね。そういう意味ではコミュニティーそのものではなくそこにいる誰かに依存していることが僕は多いし、そういう人がいないコミュニティーは自然に解体されていく。コミュニティーの多さがポートフォリオになる人ってマメな人なんだろうなって思いますよ。facebookめんどいもん。
僕はそういうところで緩く生きているので、facebookはめんどいけどたまに書くし、めったにいいねは押さないし、そういうことを許容してくれるコミュニティーじゃないと息ができないだろうし。
誘う人じゃなくて誘われる人でいられるのは幸せなのかもしれませんね。