novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

正義による抑圧が強すぎると人は開き直る

倫理というか原理原則というかなんというか、そういったものに「従わなければ人として問題ある」的な話はもちろんベースラインにあって、だからこそそれは抑圧なんだけど、その抑圧は社会を成立させるために必要な抑圧だから仕方なく許容しているわけですよね。
これが、「考えることすら罪」みたいになると生きていくのが辛くなってしまう。真面目に相対すると修行僧になるしかなくなるし。

ここ最近見られる色々な対立が、「抑圧されている感情」を共用することによる感情の強まりに正義が火に油を注ぐようなやり取りから生まれているんじゃないかと思ったりもします。

これが開き直りに繋がると理屈なんて吹っ飛んじゃうんだよね。

リベラルにはジレンマがあり、それは倫理のための自由か自由のための倫理かというところに答えを出せないところなんだと僕は思っているのですが、それは家族が大事なら残業せずに家に帰れ(アレ、じゃあ仕事大好きな俺はよくない考えの持ち主なの?)的な話で、社会のレイヤーと家庭のレイヤーと個人のレイヤーで自由であるべきとしながら実のところそのレイヤーの相反する作用によって自由なんて何一つなく、いざ自由になろうとしたら別のレイヤーから常に自由の敵とみなされるような原則通しの対立をそのまま受容せざるを得ない状況にあるからですね。

今、目に見えて抑圧に対して開き直り始めているのは古典的な、極めて狭い(ある種の家庭的な)全体主義を標榜している人たちに見えますが、実際のところ、その人達へ反発する正義の側の言動を苦々しく思っているのはまだ開き直ってまではいない、原理原則だけには生きられない(原理原則だけを中心に生きている人たちが違う意味で開き直っている非倫理的な人々に見える)、どっちかというとリベラルな人たちであり、その人達の倫理観が雪崩を打つように崩壊してしまったら…

社会が抱える矛盾をある一つの観点からだけの方法論で解決しようと試みる人が社会を変えるには革命しかないだろうし、革命というのは今ある矛盾を別の矛盾に入れ替える方法でしかないよね。そうでもしないとよくならないところは絶対にあるだろうし、でも、そこにつきものである犠牲を許容することが出来るかどうかということに対する考え方こそが現代に生きる我々にとっての踏み絵なんだと思うよ。

自分の生き方を貫く、という事一つとっても矛盾なしには成し遂げられないわけで、そこに対して一つの決まった正義による評価は出来るわけがないんだよね。