novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

バカをバカにするという問題

僕自身はバカはある程度ちゃんとバカにすべきだと思っているんだけど、それはそれとして、まあなんというか世の中に対して正義の発言を強いる人ほどバカを思いっきりバカにしていることが多いような気がする。定量調査はしてない。

というか。

正しくない発言ってのは当然人間誰しもするし、それが正しくない「現状認識」とか「社会の変化」への不適応とかによって行われたものであった場合必ずしも本人だけの責任とはいえないし、それが文化的な背景を持っている(地域性による抑圧とかね)と尚更ではあるんだけど、そこから脱却するためにはいわゆるインテリ的な(もっというとリベラル的な)背景に自分自身を塗り替えなければならないことはよくある。例えば差別の当事者みたいな人はそこから自分自身の思想を脱却させるためには(つまり、自分自身が不当な扱いを受けているという認識をするためには)自然とリベラル方面の思想になるけど、そうじゃない人たちはそもそも古き悪しき思想を「当然」とみなしている(さらに悪いことにそれは意識的にではない)ことが多いよね。

これだけのスタート地点の差異があると当然「べき論」では物事は解決しないし、唯一の解決策は教育という名の思想の洗い替え(これを悪い言い方すると洗脳になる)しかないんだけど。少なからず文化を変え文明を進化させるというのは新しい思想哲学で世の認識を塗り替えるということであって、それ自体はたとえ個人の意見を尊重することが大事と言っても人間が果たさなければならないことであって、歩みは遅いながらも建前のところは少しずつ良い方向に変わってきていると思うんだけど、建前が先行しすぎて本音とのギャップが出すぎると揺り戻しは来るし、何しろべき論はある程度社会の安定性があることを前提に成立するものでもあるから、社会情勢が不安定になると積み上げてきたものが全てご破産になりがち(トランプとか、フィリピンの大統領とか)。

先のエントリに対して「コミュニケーションコストの差異こそが差別では」的なコメントがいくつかあったけど、それはそのとおりかもしれなくて、ただ、その解消として差別を知らず知らずのうちにしている側から能動的なアクションが行われることはほぼ期待できないので、単に指摘しただけだと「お前らは差別してる!」「え~そうなの?そんなつもりないけど」で終わっちゃうよね。だから、差別を解消したい側が頑張るしかなくて、それが「世の中不公平だ」って話なんであればその通り。世の中不公平だ。

一方で、差別の当事者じゃない人たちも特にリベラル方面を自認している人たちはそういった解消に尽力している人も少なくない。僕自身こんなエントリ書いてるけどさ、目の前で差別的な発言があったら(TPOによるとは言え)咎めるようにはしているわけで。ただ、それは何がダメなのか説明を伴わないと一過性のものでしかなくなっちゃうからね。

バカをバカだと指摘することは大事だけど、バカにするってこと自体がある種の思想的な差別(高尚であるという自意識的な何か)を含んでいる可能性は考えておいたほうが良いんじゃないかと思う。

僕自身はその辺りの一貫性に自信はないので、時にダメな発言をしながらもゆっくりしか成長できないんだけど。