novtanの日常

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個人の権利全盛の中で公衆衛生を考えること

権利とか、自由とか、前提に安定した政体が合ってこその話ではあるとは思いますが、それは「権利があるとかないとか」という話ではなくて、それが安定的に実現できるかの話でしかないのでまあまあ難しいことではありますですね。

公衆衛生もその一環にあるものと捉えているんですが、良い対処と思われるものが「運が悪ければ自分が犠牲者になる」ものであることを受け入れられない結果、対処事態を拒む(予防接種拒否とか)ことでかえって犠牲者になる確率を上げるような行動をとってしまいがちなのは、人間が合理性というものに対して向き合うことの限界みたいなものを感じてしまいますね。

例えば「閉じ込められた6人で8連装の弾が一発だけ入った拳銃でロシアンルーレットやって弾が出るか全員引き終わったら開放、時間切れになったら全員死亡」みたいな状況であればまず間違いなく全員引き金を引くと思うんですが、「1/3の確率で死亡する毒を飲まされた6人が一つだけ絶対死ぬ毒が混入しているワクチンを全員飲むか全員飲まないかのみ選択できる」みたいな選択肢だと行動は割れると思うんですよね。

震災のとき、まあまあ自己犠牲的な行動を美化するなという話が出た記憶がありますが、なんとなくここも戦争の爪痕、すなわちトラウマが悪い方向に働いているような気がしていて、個人的には「運が悪い」ことも含めたこういった問題に対して適度な諦念を持つことが成熟した社会なのではないか(執着しすぎる社会は少なくともいまのリソースでは建設的ではないのでは)と思ったりもします。

もっとも、これはすぐに弱者に犠牲を強いる考え方になりがちなので、コントロールの難しい概念の話ではあります。お役所だってこれまで数々の問題を起こしてきていて(薬害とかね)、公衆の利益のために引き下がれって言われてもそりゃ違いますよね、というところもあるし。なので、正しさを突き詰めて出てくる割り切りを正しく飲み込み運用できる社会、というのは当分来ないだろうし、本当はそれを必要としないくらい、社会の問題がどんどん解決されて行くような社会が望ましいのかもしれず、そこを突き詰めていくともう地球が狭すぎるというのが結論になっちゃうような気がしてしまいますね。