いくら制度があっても運用されないと意味がないし、運用されないことに文句を言ったらすぐ運用されるかと言うとそんなことはないので、最後は人間であり社会の問題になるわけです。だから意識を、というのは言うのは易しですが、だからといって「全員がいやいや運用している」という状況が正しいわけではないよね。
不平等やら不公平、不公正について語るときに、「優越側にいる人は負債を持っている」ようなことをいい始めることがあると思うんだけど、これは、理屈の上ではそうなんだけど、これをベースに「平等のために犠牲になれ」みたいな話になるとちょっと違うよね。もちろん、負担を増やす、ということはあるんだけど、それが個々の行動における負担である必然性はなくて、(間接的には行動への負担につながるかもしれないけど)金で解決するならそれでよいわけじゃない。個々の人々が温かい社会なんて要らないんですよ。
でも、それって社会というものがコミュニティの枠組みだと考えたときにあまりに寂しいよね。だからある程度人間関係ベースの策も考えるし、「助け合い」という概念も出てくる。大事なのはバランスとか、逃げ道とかであって、自助みたいな話を頭から否定するのもあまり良いこととは言えないし、でも自助に頼らざるを得ない状況は作っちゃダメだよね、とかね。理想的には狭いコミュニティーで解決できる課題はその中で解決するのが効率がいいに決まっている。でも効率のために犠牲になるものが大きすぎるときに、それを改善する口がない、というのが良くないわけだ。また、この手の話は悪意に弱すぎるから、そういった問題が可視化された現代において、手段としてあまり選ばれなくなっている(そして、最後の砦はいい意味でも悪い意味でも学校とお役所だと思う…)。
どんなに理屈を積み上げても、最後に運用するのは人間だし、人間であればコミュニケーションは必要だし、結果、運用をする人たちは善意にも悪意にもさらされるよね。制度そのものはそういった部分のストレスを軽減させるようなことは組み込めないし、まさにそれが人間系の仕事なわけだ。だから、人間系の対応は極力減らす、というのが一つの解ではあるけど、どうしても人間系は残ってしまう。そういった残ったところへの配慮ってのは健常者とか障害者とか関係なく、それこそ「当たり前」であることは大事だと思うよ(毎回挨拶をせよ、という儀礼的な話ではない)。
正しいことを、求められて行う、ということは結構なストレス源ではあるんだから、社会を円滑に運営するためにはそれを軽減することをみんなで考えるということは必要だと思う。