novtanの日常

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可視化だけでは解決につながらないねえ

togetter.com

もはやMeTooが良いように使われちゃっている事例だよねえ。このブコメでの対立ってのは結局の所「問題を認識した」と「問題が解決されるように動く」の大きな違いが全然埋まらないどころか、可視化されたことで過剰に対立を招いているとすら言っても良いんじゃないかな。

何しろ、プロフェッショナルの世界においても「善きサマリア人の法」という考え方(これ自体は考え方だからね)をベースにしないと行動を躊躇する、ということがあるわけなんだからいわんや素人をやって話ですよね。

MeTooというよりはそもそもWeb(もっと狭めに言うとTwitterとかFacebookなんだろうか)によって問題の可視化がされてきた、という歴史はあるにしても、それって結局n=1からx(狭い)の主観の提示に過ぎないことも多々あったし、もちろんそれがきっかけになって「調査が」進んだりすることもあったんだけど、ここ最近ではこの極小数の事例をトリガーに一般的な解決を図るという間違った方針をとりがちなのではないかと危惧している。特に(やり玉に上げるというつもりはないけど)社会学において調査などを含めたフィールドワークではなく、ごく僅かな事例を元にした主観で語る、という話が増えているようにも思える(少なくとも僕の周りにいた、社会学で大学院に行った人たちはそんなことをしていなかった)。これも、結局のところ、本来の活動の場以外でカジュアルに物事を社会に発信する(=責任が曖昧なまま立場にものを言わせた発言をする)みたいな手段が増えてしまったことに起因しているのではなかろうか。

ともかく、可視化したからと言って問題が解決するわけではないので問題解決に動かなければならないんだけど、社会の問題ってのはほとんどの場合、単純に原因を取り除く、ということは出来ない(ホームレスをなくすにはホームレスを虐殺すればよいわけでもなければ、ホームレスに3億円配ればよいわけでもない)。現実的に取りうる案、というのは別の誰かの痛みを伴うわけで、細かく社会としての合意を積み上げていくことでしか解決しない。ともすれば、「今そこにある」問題ってのは絶対に解決できないということにもなる(その代わりに、50年後は今よりマシな世の中になっているかもしれない)。

でも、こういう時代においては「自分の幸せが今この場で実現できること」が価値観の最上位に来てしまいがち(そして家族のために頑張るという価値観でブラック企業で仕事をしている人がDISられる。なぜだろうか)。社会の対立の構図をより鮮明にする、という意味では可視化というのは実はあまり良くないことかもしれないし、可視化を元にドラスティックに社会を変えるということは今までは常に暴力と共に実施されてきた(し、よりよいということを免罪符として多くの今幸せな人を不幸に追い込んできた)わけだ。

より大きな目的のためには犠牲を厭わない、というのも一つの考え方なんだけど、ミクロな価値観の部分でそのような考え方でみんながぶつかりまくってしまう、というのはどう考えても幸福な状態ではないように思える。